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グレーゾーン村の人々|常識のない喫茶店|僕のマリ

本連載の書籍化が決定しました(2021年8月4日付記)

 無礼な人や迷惑な人は出禁にしてもいいというのが当店のモットーであるが、依然として困ったお客さんは多い。わたしも結構出禁にしてきたつもりだが、それでもまだモヤッとするお客さんは多い。来店すると思わずため息が出てしまうような人たちだ。問題なのは、その人が出禁にするほどの「大罪」を犯していないというところ。注意するかどうかも憚られるパターンもあって、いっそ店内で一暴れしてほしいとすら思う。今回は、そんなグレーゾーンを攻めてくるお客さんにスポットを当てる。もしかしたら、同じような悩みを持つお店も多いのではないだろうか。

 ある日の午後、いつものように働いていたら、客席のどこからか「カリカリ」と音がすることに気づいた。同僚たちも気づき、みんなで「なんだろう?この音……」と音の出所を探った。換気扇の音?空調が壊れてる音?と訝しんでいると、ホールを担当していた同僚がハッとこちらを見た…。そしてこっそり、耳打ちをして教えてくれた。「爪だった」「え?」「おじさんが、爪を櫛で研いでる音だった」カウンターで新聞を読んでいるおじさんのほうを見やる。手元を凝視すると、確かに、一心不乱に櫛を爪でカリカリしていた……。出所がわかったところまではよかったが、その「カリカリ」が一向に止む気配がないので、みんなだんだんイライラしてきて、イライラを通り越して発狂寸前になった。新手の拷問みたいだった。カウンターに座る他のお客さんもおじさんのことをチラチラと見ている。読書中のお客さんに至っては、手につかないのか全くページが進んでいなかった。不憫で仕方ない。

 しかし、このおじさんはワンシーズンに一回来る程度。外見やオーダーにこれといった特徴がないので覚えられにくいのだが、あの「カリカリ」が始まった瞬間に「櫛の人だ!」とみんな思い出す。おそらくただの手癖なので悪意など全くないのだろうが、その音を聞かされている方は着実にダメージを受けるので由々しき問題だ。注意すればいいのかもしれないが、おじさんに「櫛を爪でカリカリするの、やめてください」と言うのもなんだか間抜けだし気が進まない。全然悪い人でもないし追い出せない。こうなったら、櫛のおじさんが来たら店内のBGMを爆音にするしかない。

 これはコロナが流行る前から気になっていたことだが、お札に自分の唾を付けて出してくるのは法律で禁止にしてほしい。手指が乾燥しているお年寄りには仕方のないことかもしれないが、ちゃんとレジ横に指ぬらし的なものを置いているので、どうか使ってくれないだろうか。同じ理由だが、店の新聞を読むときにベロベロ指を舐めている常連がいて毎日イラッとしている。血圧が上がっているのがわかる。「あいつは新聞を舐めに来た」と言えるほど執拗に指をねぶっているので、勘弁してほしい。「唾まみれの新聞、触りたくないなあ……」という気持ちと、「こんなこと注意するの虚しいなあ……」という気持ちが混ざり合って複雑な心境になっている。お冷やの水滴とかで頑張ってめくってほしい。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ。わたしの心が狭いのだろうか。

 「顔で注文してくる」層がいるのも悩みの種である。どういうことかというと、来店してお冷やとおしぼりを置いたときに、じっとこちらの顔を見て(俺の注文、わかってるよね)と圧をかけてくるタイプの人が一定数いるのだ。知らんと思う。そういう人に限ってたまにしか来ないのだから、覚えてるときもあるけれど、大体は知らん。こちらから「いつものでいいですか?」と言わない限り、「いつもの」というのは失礼だ。だってこちらは、毎日何十人もの接客をしているのだから。わたしのような気の強いタイプは結構はっきりと「ご注文お決まりですか?」と聞く。そうするとばつが悪そうにボソボソ注文するのだが、新人に対しては「俺の注文がわからないなんてまだまだだな」的なことを言うのでダサいと思う。残念ながら、飲食店で偉そうにすることで自尊心を満たす人は多い。
 
 わたしは新人いびりをするお客にも目を光らせている。新人さんがホールに出て行って、注文をとるときに「いつもの」と言う人は特に信じられない。想像力がなさすぎではないか。だって知らないんだもの。まだ仕事を覚えている途中なのだ。それで困っていると「キッチンの先輩に聞けばわかるから!」と吐き捨てる輩もいた。そんなことしたらただの二度手間なのに、どうしてそんなに意地悪なのか聞きたい。やさしいお客さんは「ゆっくりで大丈夫です」などと言ってくれるだけに、ドラマの姑のようないびり方をしてくる人がいるのが悲しい。でもそういう人たちはきっと孤独で、どこにも居場所がないから、こんな小さな喫茶店で自分を認めてもらいたくて必死なんだろうと思う。わたしは新人さんに「なめられるな、愚痴は溜めるな」といつも言う。この子たちを指導して良いのはわたしたち先輩しかいないのだ。

 少し怖いエピソードもある。毎日来る小野さんというおばあさんは足が悪いらしく、いつも支え代わりのシルバーカートを引いて、ゆっくりとつらそうに歩いているのに、近くの商店街では普通にスタスタ歩いていた。衝撃だった。シルバーカートを転がして、颯爽と歩いているのだ。店内では「ごめんなさい」が口癖のしおらしいおばあさんで、周りのお客さんも気を遣って席を譲ったり、道を空けたりしてあげているのに、全部フェイクだったのだ。なんということだろう。小野さんのオスカー女優並みの演技力と狡猾な手口に驚きを隠せなかった。多分電車とかでもやっているのだろうな……と容易に想像できた。お年寄りのライフハックなのだろうか。こういうのは老人会とかで教え合うのだろうか。しかし、こちらもスタスタ歩けるのを見てしまった以上は「せこいおばあさん」という印象しか持てず、何も知らないお客さんたちが小野さんにやさしくしているのを見ると(ああ……)と残念な気持ちになってしまう。でも、こんなに小ずるく生きる術を持っているから、小野さんは天寿を全うすると思う。

 定期的に思い出して笑うのが、加藤さんという古い常連の話だ。彼はかなり長い間うちに通って、コーラをストローなしで飲む人なのだが、人柄が絶妙にうざいので、歴代の店員に嫌われてきた悲しい中年男性である。ちょっと仲良くなった店員の連絡先を聞いては、しょっちゅうしょうもない連絡をしてくる要注意人物で、わたしも先輩に「めんどくさいからアドレス教えないほうがいいよ」とアドバイスを受けていた。パニック映画で調子こいて序盤で死ぬ脇役っぽい雰囲気の彼は、ついうっかりストローを持って行くと「あ、俺はいらないから!」とやれやれ感を放ってくる。めっちゃ腹が立つ。ストロー使えと思う。そんな加藤さんは、後輩が新人だった頃、何度目かの接客で「ちったぁ慣れたか?」と聞いてくる猛者でもあった。80年代の少女漫画を彷彿させるその台詞を放ったのは、いけすかないけど気になるアイツではなく、パニック映画で真っ先に死ぬ加藤。「キレそうになりました」と言う後輩、大爆笑の先輩たち。「ちったぁ慣れたか?」なんて台詞、何回生まれ変わっても言えないと思う。

 そんな加藤さんも最近は来なくなって、ああ卒業したんだなと悟った。引っ越しや転勤でもしたのかもしれない。後世に残したい名台詞をありがとうございました。

僕のマリ(ぼくのまり)
1992年福岡県生まれ。物書き。2018年活動開始。同年、短編集『いかれた慕情』を発表。ほか、単著に『ばかげた夢』と『まばゆい』がある。インディーズ雑誌『つくづく』や同人誌『でも、こぼれた』にも参加。同人誌即売会で作品を発表する傍ら、文芸誌や商業誌への寄稿なども行う。
Twitter: @bokunotenshi_
はてなブログ: うわごと
連載『常識のない喫茶店』について
ここは天国?はたまた地獄?この連載では僕のマリさんが働く「常識のない喫茶店」での日常を毎月更新でお届けしていきます。マガジンにもまとめていきますので、ぜひぜひ、のぞいてみてください。なお、登場する人物はすべて仮名です。プライバシーに配慮し、エピソードの細部は適宜変更しています。