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ロールモデルはなくていい|はらだ有彩×ひらりさ対談②

 『日本のヤバい女の子』の著者、はらだ有彩さんと、ライターのかたわら劇団雌猫メンバーとしても活動するひらりささん。お二人とも、書籍や連載を通じて、これまで多くの女性について書いてきました。トークイベントなどでも何度か共演しているものの、なかなかじっくり話す機会がなかったという二人が、今回は「時間を気にせず、お互いが気になっていることをおしゃべりしてみよう」と対談しました。
 第二回のテーマは、女性に求められがちなロールモデルや肩書きについて。(第一回第三回へ) 

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ロールモデルはなくていい

――個別化することは、なにかの役割を担うこととは異なるのでしょうか。自分自身を個別化するためには、自分がなにをしている人なのか、たとえば肩書きや役割を提示していかなければならないように感じます。

ひらりさ うーん。私にとって、「個別化」と「差別化」は違うかもしれない。肩書や役割は差別化のために求められているんじゃないでしょうか。女性の書き手なり女性の発信者ほど、ロールモデルっぽい肩書きを作らないといけなくなっていると私は思っているのですが、これは個別化じゃなくて差別化の問題だなと思っています。

はらだ ひらりささん、この前twitterで「『●●をしている人です』って言えるようになったほうがいいって言われて悩んでいる」みたいなpostしてませんでしたか。

ひらりさ よく見てますね。すぐ消したんですけど(笑)。「劇団雌猫」に関しては、フォーマットが明確で、活動スタイルが確立しているんですが、個人ライターとしてのひらりさはそういうわけではないんですよね。だから編集者さんから「〜〜に強いライター」とか「〜〜研究家」のような肩書を考えませんか、と意見をいただくことがあるんです。それは完全にそのとおりで、読者にとってはSNSにしてもウェブ記事にしても書籍にしても、書き手が「これを伝えたい人」であることがわかるほうが、絶対にとっつきやすいんですよね。でも、私はまだそこに抵抗したい気持ちがあって。

はらだ うおお!「抵抗」の話だ! 私の新刊『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』に被せてくださっているな…(笑)

ひらりさ 「名乗る」ことって、それが本人の望んだものにしても周囲が望んだことにしても、「名乗らなかった部分を無視する・忘れる」ことにつながるじゃないですか。たとえば『日本のヤバい女の子――静かなる抵抗』に出てくる「鬼女 紅葉(もみじ)」(同書30ページ~)とか最たる例だと思うんですが、「鬼女」とついた途端に、親孝行なエピソードとかかすむじゃないですか。そういう不安があります。
 はらださんは、『日本のヤバい女の子』で、誰かが・あるいは本人が切り出したものをまなざしつつ、切り出されていないものも想像するっていう試みをしているじゃないですか。それがすばらしいと思う。肩書きをつけること・誰かのロールモデルになることって、本人にとっては自分を規定するだけじゃなくて、目指す目標をつくる営みでもあって、すごく前向きな自己啓発だとは思うんです。でも私の場合は、自分に肩書きをつけるなら死ぬ瞬間しかないんじゃないかと。自分の「戒名」なら考えられる気がする。

はらだ どういうことですか?

ひらりさ 過ぎたものの話しかできないなと思うんです。ひとことで要約するという行為にも抵抗があるかもしれない。そもそも自分のフィロソフィーをひとことで要約できます? いろんな顔を持っていていいし、積極的に切り分けなくていいと思う。わかりやすくすることを求められるのが嫌なのかもしれない。うーん、「早く大人になりなよ」って話なのかもしれないんですけど(笑)。

――自分が何者であるかを誰かにわかりやすく伝えるために個別化するのではなくて、自分自身のために自分を個別化するということですね。

はらだ 私も、以前インタビューでロールモデルについて訊かれたことがあります。「いねぇーーー!」となった。好きな人や、憧れる人や、神やん!と思う人はもちろんたくさんいるんだけど、ロールモデルという言葉になった途端思い浮かばない…。なんでだろう…。

ひらりさ ロールモデルって男性のインタビューで訊かれているのはあんまり見たことがないという偏見がある。女性のインタビューで結構訊かれているなと思う。

はらだ ごめんなさい、偏見に偏見を被せますが、それはちょっと分かります。偏見というよりもはや肌感覚レベルですが。肌感覚ついでにもうひとつ被せると、女性のロールモデルっぽい人が雑誌などに登場するとき、高確率で「家庭と仕事の両立」について訊かれているなとも思います。ロールモデル=素晴らしい女性=家庭と仕事の両立、みたいな。朝何時に起きて子供を保育園に送り、日中はバリバリ仕事! 16時までに絶対終わらせる! お迎えと買い出しは効率よく! みたいなタイムテーブル付きで。これも肌感覚なので「どこの何に何行書いてあった」と証明しづらいですが。

ひらりさ ジャニオタから聞いて知ったんですけど、ジャニーズには「尊先(そんせん)」(尊敬する先輩)という概念があるそうなんですよね。雑誌とかで尊先を訊かれることが多々あって、みんなそれに答えている。近況ページで尊先と焼き肉を食べにいった話をしたり。だから男性にとっても憧れている先輩のようなつながりはあると思う。でもそれは女性が訊かれるロールモデルとは少し違うと思いません?

はらだ 最近、「キラキラワーママ」として取材を依頼された人が、頑張ってるタイムテーブルとか、素敵なごはんの写真を下さいと言われて、嘘はつけないから結局断った…という話をTwitterで見かけたのを思い出しました。予め作り込まれたロールモデルとしての「キラキラワーママ」像が確立されている。そしてその「キラキラワーママ」像は高確率で時間をやりくりしているような印象があります。

ひらりさ そもそもワーパパインタビューというものがすごく少ないですよね。っていうかワーママに対して「ワーパパ」って言葉使われないですよね。男性誌を読む限り、かっこいいスーツ着てチャンネーと六本木で寿司を食べて、そのかっこいいスーツの値段が書いているみたいなキラキラの世界だけど、女性誌は雑誌のなかで提示されるキラキラの世界と現実の生活をどう両立するかみたいな企画が多い。

はらだ 「生活」が必ず添えられている、あるいは「生活あっての仕事」「生活あってのキラキラ」というバランスが取れているのが「良い女」、すなわちロールモデルとして提示される。「女だから24時間の中に不可侵の『生活』があるはずですよね? 時間は生活に優先的に分配して、残った時間に『仕事』と『キラキラ』を割り当ててるんですよね?『生活』だけじゃなくて『キラキラ』も確保して、それも少ない時間でも高パフォーマンスを出してこそですよね?」という期待が、「タイムテーブル」というあしらいに表れているのかもしれない。そうやってやりくりしている姿は「救い」になる場合がないわけではもちろんないけど、「呪い」になる場合だって少なくない。

ひらりさ 男性の場合、仕事術とかも「プライベートVS仕事の時間」という切り口はまだまだ少ない気がする。

はらだ 仕事の領域が不可侵というか、仕事の時間が確保されていることが前提になっている。それがまた同じように「救い」になる場合もあり、「呪い」になる場合も大いにある。

ひらりさ 女性のほうが公私の概念がある、ことにされているのかな。女性本人が、子供がいることによる時間のやりくりをコンテンツ化して発信することは本人の自由。だけど、人は、女性が子供がいることや結婚していることを知るとその時間のやりくりを知りたくなってしまう。知りたくなっているのは男性ではなくて女性だなあとは思います。女同士の話ですね。

はらだ 知りたいと思うのは切実に参考にしたいからではあるんでしょうね。なぜなら自分もやりくりしないといけないから。そういう意味では確実に役に立っている。けれどそれは付け焼き刃の助けにしかなっていなくて、本来の問題は、構造の問題は解決していない。
「ロールモデル」という言葉がしっくりこないのはそのせいかも。「ロールモデル」という言葉を使ったとたん、「自分のための道具」みたいな感じがする。参考にされたご本人の苦悩や葛藤も「凄いね!!!」と過剰にポジティブに捉えて、素顔を見ることなく消費してしまうような。参考対象と一体化して、反対に個別化から遠ざかっていくような。

――つまり、憧れている誰かのロールモデルやタイムテーブルを参考にしても、その人にはなれないし、結局生きていくのは自分だよと。

はらだ 参考にしたい人っているじゃないですか。たとえばTHE YELLOW MONKEYさんみたいにキレッキレになりたくてもTHE YELLOW MONKEYさんそのものになりたいわけじゃないじゃないし、なれないし、みたいな。

ひらりさ THE YELLOW MONKEYと同じタイムテーブルで暮らしてもTHE YELLOW MONKEYにはなれないですね(笑)。ロールモデル的思考って同じタイムテーブルで暮らすとTHE YELLOW MONKEYになれるって思ってることなんじゃないですか。私は個別性が好きだからロールモデルを訊かれたり誰かのロールモデルになるのが嫌だなっていう気持ちがあるのかもしれない。

はらだ 私、なんで自分にロールモデルがいないのかなって考えていたんですけど、今ふと(芸術大学に進学したからかも?)と思いました。作品を作るとき、「制作の方法論や歴史はもちろん勉強するけど、思想やコンテクストにロールモデルがいたらまずいしダサい」と考えている人が多いんじゃないでしょうか。自分が学生のときの話だから、今の人の感覚かどうかは分からないけど。あとは、「好きな人はすごくたくさんいるけれど、真似のしようがない」というのもあるかも。たとえば私は山本寛斎さんがすごく好きだけど、今は1970年代じゃない。今から同じ方法を真似して頑張ってもデヴィッド・ボウイとは友達になれないし、同じように追いかけても全てが遅すぎるから成功できない。
 それと、これはちょっとセコいかもしれない告白なのですが、「ロールモデルがいます」って言うのって、「手の内見せます」と同義な気もしちゃう。それを明かすことによって、少しでもアウトプットが似てしまったら「影響を受けている」とか「真似している」と捉えられてしまう。もしもロールモデルがいたとしても、私はセコいので秘密にしてしまうかも(笑)。

(構成:楠田ひかり)

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第三回に続きます

第一回はこちら

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はらだ有彩
関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを手掛けるテキストレーター。2014年、デモニッシュな女の子のためのファッションブランド《mon.you.moyo》を開始。代表を務める。
2018年に刊行した『日本のヤバイ女の子』(柏書房)が話題に。2019年8月に続編にあたる『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』を刊行。「リノスタ」に「帰りに牛乳買ってきて」、「Wezzy」にて「百女百様」、大和書房WEBに「女ともだち」を連載。
Twitter:@hurry1116 
HP:https://arisaharada.com/
ひらりさ
1989年東京生まれ。ライター・編集者。平成元年生まれの女性4人によるサークル「劇団雌猫」メンバー。劇団雌猫の編著に、『浪費図鑑 悪友たちのないしょ話』(小学館)、『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』(柏書房)、『本業はオタクです。 シュミも楽しむあの人の仕事術』(中央公論新社)など。最新著『誰に何と言われようと、これが私の恋愛です』(双葉社)は11月6日発売予定。
ひらりさ名義として「FRaU」にて「平成女子の「お金の話」」、「マイナビウーマン」にて「#コスメ垢の履歴書」を連載。
Twitter:@sarirahira