「海底からの声」――捜索・救助活動に従事し続ける潜水士の見たものとは?|柏書房編集部より
柏書房では2月25日に、矢田海里(やだ・かいり)・著『潜匠(せんしょう) 遺体引き上げダイバーの見た光景』を刊行しました。本書は、宮城県で30年近く遺体引き上げや海難事故での人命救助や創作活動に従事してきた民間の潜水士・吉田浩文(よしだ・ひろふみ)氏に、東日本大震災直後から10年にわたって著者が密着取材して書き上げた、生と死のドキュメントです。
震災以前から活動を続けている吉田氏が体験してきた、海底という極限の状況下での孤独な作業、引き上げの現場で目にしてきた人間の生と死、そして東日本大震災で直面した「不条理」。
東日本大震災から10年、改めて問われる、死者への想いと残された者たちの悲しみ、そして復興のあるべき姿――『潜匠』はそうした課題を問い直す機会ともなるドキュメントであると考え、今回、noteで行われている「#それぞれの10年」と題した投稿企画に合わせて、本書の「プロローグ」を全文掲載することにいたしました。
また、今後、著者の矢田海里さんからのメッセージなども投稿予定です。一人でも多くの方にお読みいただければ幸いです。
プロローグ(『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』より)
真っ暗な運河の底をゆっくりと歩いていた。
澱んだ水面は油膜で覆われ、昼間でも陽の光は届かない。上も下もわからないような、本当の闇だった。運河の底には分厚い泥が溜まっていた。潜水用のブーツの靴底にはいつも、田んぼの中を歩いているようなズブズブとした感触があった。
行く手には無数の残骸が折り重なっていた。ひっくり返った車、冷蔵庫やバイク、家屋の屋根。手にした水中ライトの小さな視野に、それらが次々と飛び込んでくる。容易に進むことはできない。
頼りは、手にした一本の細い棒だけだった。その鉄の棒で運河の底を突きながらゆっくりと歩く。棒の先にぼってりとした土 嚢のような感触があれば、それが人の腹や太ももであるかもしれなかったし、コツコツと硬い感触があればそれは人の頭かもしれなかった。これはと思うものを手探りで引き上げ、水面に上げてみて、人であるということを確認する。それを土手の上で待つ警察官に引き渡すと、また同じように暗い運河の中へと潜っていく。
そうやって何日も同じことを繰り返しながら、いったい何人を引き上げたかわからない。
「わからない」というのは、あまりにも人数が多いためにわからないということももちろんあった。ただそれ以上に、頭だけ、腕だけなど、ちぎれた身体の一部だけということもあり、いったいどれが一人なのかがわからないのだった。
昼時になると水から上がり、土手の上に腰掛けて一息つく。乾いて硬くなった支援物資のおにぎりと小さな缶詰が一つと水。それらをかき込みながら、分厚い写真の束に目を通す。岸壁を往来する行方不明者の家族が「見つけたら知らせてください」と言って置いていったものだった。最初は数枚だったが、その数も日に日に増えていった。
だが何度も見るうちに海水でふやけてしまったそれらの写真も、実際の捜索にはほとんど役に立たなかった。運河から上がってくる遺体は泥だらけであったり、傷ついて色やかたちが大きく変わっていたりして、とても人物を特定できる状態ではなかったからだ。
日没が近づく頃、一日の作業を終えると警察や消防とともに報告と打ち合わせをする。潜水具を車のトランクにしまうと、エンジンをかけ、朝方通ってきた避難所への一本道を再び戻っていく。
車窓からは瓦礫の荒野がどこまでも続いて見えた。それは見渡す限りのどうしようもなく重苦しい混沌だった。漁船が田畑に転がり、壊れた家々の屋根や木材、ひしゃげた車があたりを覆い尽くし、引かない海水が田畑に溜まったまま曇天を映す。ぴんと張り詰めた緊張が何日も続く中、心の底でぼんやりと考えた。
「いったい、いつになったら終わるのだろう……」
吉田浩文が行方不明者の捜索にあたっていたのは、宮城県名取市閖上地区にある貞山堀だった。貞山堀とは仙台平野の海岸沿いに数十キロも続く、かつて伊達政宗が作らせた運河である。
その貞山堀にほど近い閖上七丁目に吉田が妻と小さな息子を連れて引っ越してきたのは、2007(平成19)年の春のことだった。それからというもの、毎年夏には海水浴場の警備主任をし、アルバイトにやって来る地元の若者たちを育てながら過ごしてきた。夢を持った若者もそうでない若者も、同じ夜空を見上げ、同じ花火を見つめていた。それは吉田にとってささやかで幸福な日々だった。
吉田が大震災の直後から行方不明者の捜索に携わっていたのは、本職が潜水士であったからだった。それも、かなり変わった経歴の潜水士だった。ふだんは港湾土木の工事現場で潜水業務をして生計を立てていたが、潜水の腕前を買われ、警察に頼まれた仕事を請け負うことも少なくなかった。
自殺者を港の底から引き上げたり、沼に投げ捨てられた事件の遺留品を捜索したり、溺死者の亡骸を家族のもとへ返してやったりした。いわば、遺体引き上げのプロだといえた。誰にでもできる仕事ではなかった。その分、誤解や偏見も多く、悔しい思いもした。しかし警察から幾度も表彰を受けもした。それは自らを見つめ、遺体から学び、「天命を知った日々」でもあった。
だがその人知れぬ誇らしさも、無意味なものに帰した。大津波はあまりに多くのものを奪っていった。自宅はおろか、閖上の町そのものを押し流し、人々の過去や未来を捻じ曲げ、無数の命をもぎ取っていった。重い空の下だった。いったい自分たちに何が残されたのか、誰にもわからなかった。
「あの時、潜水用のドライスーツを持って避難していれば……」
胸が震えていた。あの日、吉田は避難した先の小学校の窓から飛び込んで何人かを救出した。しかし無力でしかなかった。遠くで助けを求めながら流されていく無数の人々。中には老人や、小さな子どもの姿もあった。何もできなかった。ドライスーツがあれば彼らを救出し、いまも何十人もの人が生きていたはずだった。
「何かできることはないか。きっとあるはずだ……」
それからの数日、吉田は避難所に身を寄せながら奔走した。名取市に捜索参加を申し出、県外の知り合いに連絡して全国から選りすぐりのダイバーたちを揃え、自らも暗い海へと潜りはじめた。
壊れた町。鼻をつく、すえた津波の臭い。遅い東北の春はそれまでに過ごしたどの春とも違った色合いを帯びていた。
「大変な時ほど、笑わなきゃいけねえ」
避難所で帰りを待つ妻と息子に、吉田は常々思っていたことを言い聞かせた。それは家族を
前向きにさせもしたが、底のない悲しみにうなだれる周囲の避難者にとっては、どこか空虚に響いたかもしれなかった。
いずれにしても吉田は自分を奮い立たせるしかなかった。そして少ない支援物資で胃袋をごまかすと、次の朝もまた同じ海辺の運河へと向かっていった。