見出し画像

東北prayer~東日本大震災からの10年|矢田海里

『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』の発刊から約ひと月が経った3月13日、著者である私・矢田海里と、以前から親交のあった哲学者で「かがり火WEB」共同主宰者の杉原学さんとの対談が実現した。セッティングは、ヤギサワバルの店主、大谷剛志さん。「バルとお話しの日 東北prayer」と題し、著書について、そして東日本大震災からの10年を振り返った。

杉原&矢田

杉原学氏(右)と矢田海里氏


◆被災地で出会った吉田浩文という男

杉原:矢田さんとは以前にも、「かがり火」の対談(https://kagaribiweb.com/sonnaikikata/605/)で東北取材のお話をしていただいたんですけど、今回はそれが一つの本になったということで。まずはこの本を書くことになった経緯と、簡単な内容の紹介をお願いします。

矢田:2011年3月11日の震災当日、私はもともと千葉県に住んでいましたがその日は東京にいたんです。そこで帰宅困難者になって港区で一夜を公民館で過ごしたわけです。その時に食べ物をもらったりして、日常とはまったく違うことが起きている、これは大変なことが起きている、と思って、2週間後くらいに東北に行きました。その時にたまたま縁があったのが、仙台空港の近くの名取市閖上地区でした。仙台市の南隣が名取市、仙台駅から最も近い被災地のひとつです。そこに10年通い続けてその地の模様を見てきました。
 その閖上地区で行方不明者捜索の1人のダイバーに震災直後に出会いまして、その方の活動を聞きながら書いたのがこの本です。吉田浩文さんというダイバーなのですが、震災前からこのような行方不明者捜索の活動をしていたことが前半部分に描かれ、後半部分が東日本大震災での活動になります。震災前からこの活動を続けていたというのが、彼に関して気になっていた点でした。

杉原:震災から2週間後くらいには現地に向かったと。当時かなり寒かったですよね?

矢田:そうですね、珍しく4月になっても雪が降るという年で、震災当日も雪が降りましたしね。
 山形から笹谷峠を通ろうとしたんですが、雪で封鎖されていて。また戻ってから作並峠という、ひとつ北側の峠まで迂回して次の日に行きました。峠の上で力尽きてテントを張ったのですが、寒くて寝られない。ああいうことはしないほうがいいです、危険ですから。

杉原:名取の閖上にとどまって、吉田さんに出会ったんですよね。閖上の人は他にもたくさんいたと思うんですけど、どうして彼にフォーカスしたのかというあたりを。

矢田:4月に入ったころだったかな。本のあとがきにも書いたのですが、名取市文化会館でタバコを吸っている男性がいて「今日何体上がったの?」「今日は上がった。泣いたわ~」という会話が聞こえてきたんです。「えっ?」っと耳を疑って。ご遺体の話しかないだろうなと思いつつ、そんな人がいるんだと衝撃を受けたんです。話を聞きたいんだけど、とても聞けない。それからひと月後に街づくりの寄り合いで、お茶を飲んで話しましょうという会合で、吉田さんを紹介されました。その時に、捜索活動の話を少し聞いて、伝えてほしいということも言われました。

杉原:かなり個性的でアクが強い方ですよね。最初の時は、あんまり印象が良くなかったと書かれてましたね?

矢田:今でも変わった人だと思いますけど。とにかく威勢のいい人で、漁師とか市場の人よりも。海辺の町なのでそういう人が多いのですが、群を抜いていました。そういう人でないと務まらないのかもしれません。ご遺体を拾って、作業の合間に笑いが出てしまうという話があって、のちにそれが心の防衛本能だとわかるんですが、当初はそんなの記事になるわけないでしょ、と。震災から1か月の時期で、皆さん必死にご家族を探している状況でしたから。彼が不明者捜索を続けていたという事実はずっと気になっていましたが、僕としては笑いの部分に関しては、はっきり言ってアウトでしたね。

杉原:現場でご遺体が上がって、作業現場の人がいるところで笑っていると。

矢田:それは震災当時ではなくて、昔からやってきた仙台港の引き上げの話だったということが後からわかるのですが。ただ、彼も震災で混乱していたのか、話がうまくないんです。いま現在進行している震災の引き上げの話なのか、十年前の仙台港の話なのか、ごちゃまぜなんです。何の断りもなく、話がワープしたりするので。「今この人が話しているのは、いつの、何の話なのか?」ということで、整理するのに時間が非常にかかったのですが、とにかくその時期では、笑いに関しては拒絶する部分が多かったです。少なくとも最初の1年は。

◆復興への思い、海中捜索――さまざまな「矛盾」

杉原:この本の最後のほうでは、現地の人が復興に対してすごく複雑な思いを抱いていることが書かれていますね。10年経って、今も通われていますけど現在はどうですか?

矢田:たとえば、防潮堤の話でいうと、それも復興の矛盾だと思うんです。国や県が復興のためとしてやっている事業も、基本的には必要なのだろうけど、プラスのことばかりではない。失われるものもある。漁師さんだったら朝起きて海を眺めて漁に出るか出ないか決めるのが日課だった。防潮堤があると、津波が来た時にその高さが見えない。そして海が見えないということが、逃げる時に役に立つのか。防潮堤があることによって安心してしまったりということもあり得る。そういう矛盾が防潮堤ひとつとっても現れるんですよね。

杉原:この本では、描写がすごくリアルで。矢田さんは潜った本人じゃないのに、そこまでの潜った感覚をよくここまで表現できましたね。それは吉田さんに聞いて?

矢田:そうですね。読者からよく聞く感想としては、やっぱりリアルだと。読みながら自分が潜っているようだとか、作者自身が潜っている人なのではないかとか。基本的にそこはしっかり描写しようという意識はありました。ただ、一度話を聞いただけでは詳細な話にはならないので何回も話を聞いた上で文字に起こしてから、文章の間にもっと詳しくこの部分がほしいとかメモして、次の時に聞くとか。丁寧にやりました。

杉原:かなり踏み込んでいますよね。震災の話だけかと思って読んだんですが、それは後半で。それまでは吉田さんの半生というか。でもそれが、後半の震災での引き上げの意味につながっていくんですけれども。僕が吉田さんだったら、そこは書かないでくれとか、それ書くなんていやな奴だなあ、とか思うんじゃないかと。その意味では赤裸々に描いたなという印象だったんですけど。
 矢田さんはもともと冒険家へのあこがれがあって、大学生の時もヨット部でしたよね。冒険への欲求が人の心理にもあるのかな。悪く言えばデリカシーがないみたいな笑。その踏み込み具合が個人的に気になりました。

矢田:たとえば、吉田さんの家族の話とかですか?

杉原:離婚結婚とか。

矢田:僕としてはどうして彼がそんな仕事をするようになったか、が気になったんです。震災で、というならまだわかるけど、その15年くらい前から始めている。そのころ仙台では入水自殺が続いて警察も困っていたんですね。たまたま彼が頼まれてずっと続けてきた。非常に珍しいことなんですが、なぜそれを続けてきたのかということが気になった。すると彼の潜水士としてのコンプレックスとか、彼は祖父や父も潜水士だったんですが、彼らにどうしても潜水の技量で勝てない。別のことをやるしかないということで、こういう仕事に入ったというか、引き込まれたというか。だから彼のパーソナリティがこういう仕事をさせているということになっているのだろうなということの根本にさかのぼらせてもらったわけです。

杉原:吉田さんは、自殺者の引き上げを毎日のようにやってるわけですよね。
 捜索活動の費用、山はかかるけど、海はかからない。世間にそういう思い込みがあったんですってね?

矢田:民間人で出動しているので日当もらっていかないと厳しい部分があったけれども、それを言うと、「え? お金かかるの」と驚かれてトラブルになったりとか。そもそも自殺の理由が借金苦だったりするので、請求しても誰も払ってくれない、払えない。

杉原:吉田さんが遺族に直接請求しないといけないという、その仕組み自体にもびっくりしました。警察に依頼されたら、警察がお金払ってくれればいいのに。

矢田:警察の方にもインタビューしたんですが、やっぱりどうしても予算が出なかったと。最終的に港湾事務所が港湾維持管理費ということで、少し出してもらえるようにはなったそうですが、それもたかが知れていたので。落ちた車をどけないと船が入ってこられないということ計上できた。でも最終的には、赤字になって破産してしまうんですが。

杉原:それで一時期借金が4千万とかになったんですよね。

矢田:自分の日当だけならまだ「タダでやります」で済むんですけど、たとえば車ごと落ちたらクレーンが必要で、それも警察は出せなかった。基本的には土木潜水をやっている人なので、普段は港の護岸工事でコンクリートを据え付けるとか測量とか水中撮影とかやっているんです。一方で引き上げの事業に関しては、クレーンの費用がかかったら自分で出したり、落ちた車のスピードが出ていると、クレーンのほかに沖に船を出さないといけないのでそれも費用がかかる。それを一手に引き受けたてきたんですね。
 彼の中にも気持ちの変遷があったらしくて。最初は自殺する人に対して「どうしようもない奴だ」と思っていたらしいです。最後まで生きれば生きられたはずだというような。最初は亡くなった方への同情ではなくて、自分が潜水士として祖父や父にできなかったことをやる、認められるには人にできないことをやるしかないと思って、そういうコンプレックスをはねのける意味で始めたようです。でも現場のご遺族が泣いている姿を見たりとか、年老いた女性がお孫さんを亡くして警察も捜索を打ち切ってしまって、どうしてもお願いしますというのを見たり、引き上げたご遺体を家族が引き取らないということもあった。死んでしまったいろんな人の人生とか、死に顔とか遺書とかを見ていくうちに、やっぱり亡くなった人に対する同情が芽生えていって。
 引き上げ費用ということに関していえば、そのお金を払える人と払えない人がいる。お金があると亡くなった方と再会できる、ないと再会できないということが大なり小なり起きてしまう。自分がお金を請求することでそういう構造を作っているのではないかと思うようになったんですね。岸壁にブロックを据え付けたりするのは、仕事ですからお金が発生するのは誰でも納得する。だけど、ご遺体になると「お前、お金とるのかよ」ということもご遺族に言われ、罪悪感も生じていく。
 一方で自分が引き上げないと海の中で沈んだままの人も増えてしまう。警察ができなければ、ずっと誰にも引き上げられないまま。そこに同情心、それじゃかわいそうだという気持ちが最終的には芽生えていって、金にならなくてもやるんだと、どこかで腹をくくったそうです。けれどもそのせいで、本の中盤で、彼は破産してしまうんですけど。

◆「節目の10年」ではなく「途切れることなく続く10年」

杉原:先日も震災10年ということで、いろんな岸壁で震災特集をやっていて、その中で見つかった人とそうでない人の間でも、大きな悲しみの持続とか質の違いがあるということで。遺体が見つからないことでどうしても区切りがつけられない、それを曖昧な喪失といっていましたけど。その違いは大きいみたいで。吉田さんもその違い、その後のご遺族の心境とか苦しみの違いを経験されて、それがあったからこそ震災のときに1人でも多く引き上げるのだということが書かれていましたね。震災前は1人だけ見つからなかったんですよね。

矢田:震災前は、人に限っても109件。それ以外にも遺留品とか犯罪捜査の証拠品とかもあったらしいですが、109のうち、105件を自分で見つけて、他3件も後で漁師さんなどが見つけた。だから108件はなんとか見つかったけど、1件だけ見つからなかった方がいて、と。震災が起きる前の閖上の町だったそうです。高校生が海で遊んでいて、行方不明になってしまった。その方を親御さんと一緒にずっと1週間とかサンドバギーに乗って探したんだけれども、見つからなくて。ある時、親御さんから「見つかりますよね?」と聞かれて、「これだけ探しても出てこないとすると、可能性は低いと思います」と言ったら、「これ以上探しても見つからないですよね?」と返ってきた。吉田さんが可能性はゼロではないことを伝えると、親御さんはあとは自分で探しますからということで、「ありがとうございました」と言ってそのまま浜辺を歩いて行ったそうなんです。吉田さんは、「このお父さんは、ずっとこれからも探していくんだろうな」と感じたと。強烈な無力感、それが忘れられなかった。それもあって震災の時も、1人でも見つからない人が少なくなるようにとの思いで、捜索をしていたそうです。

杉原:そのお父さんは、ずっと見つからなかったら本当に比喩じゃなくて、一生探し続けるかもしれないですよね。吉田さんは震災では自衛隊と一緒に探していたそうですけど、その時は1体上がるたびに作業を止めて、みんなで手を合わせてということをやっていたということですが、吉田さんは「そんなことしている場合じゃない」ということでしたよね?

矢田:はい。さっきの笑いの話と同じで、最初不謹慎に思えてそのことも僕の中で受け入れられなかったんです。前提として、自衛隊、警察、消防と吉田さん達で合同捜索をしていたそうです。5人くらいの陸上班と、重機が1台、ダイバーが1人か2人でひとつのチーム。それが運河に沿って配置されていると。そこでご遺体が見つかると、周りから作業者が集まってきて小さな慰霊祭が行われる。1日で上がるのは1体ではない。上がるたびにお祈りをしている、と。よくそうした光景を新聞、テレビなどで見ましたよね。どこの現場でも行われていたはずなのですが、吉田さんも最初それに倣っていたけど、そのうち「そんなことをしている場合じゃない」と言い出したと。その話を聞いて私も、それは祈るべきでしょと思ったけれど、彼の話をよくよく聞いていくと、違う面も見えてきて。水中で作業をしている潜水士も、助手の人がいないとできない。有線のマイクで指示を受けたり、危険があれば引き上げてもらうとかしなければならないので、1人で潜る作業ではないと。岸壁の人の補助がなくなるとできないので、お祈りが始まると自分も上がらないといけない。装備を外して歩いて行って、お祈りをして、せっかく上がったので一服ということをしていると30分くらいかかってしまう。
 それと、吉田さんが気にしていたのは、別の不明者家族がそれを見たらどう思うかということだったそうです。もし自分の家族が上がったらそれは祈るだろうと。でもまだ見つかっていないご家族がそれを見たら、どう思うか。見つかって悲しいのはわかる、祈るのもわかる。でも私の家族は見つかっていない。早く探しくれと思うのではないかと吉田さんは思ったわけですね。彼は震災前にご遺族の方からも激しい口調で、「早く探してくれなきゃ困る」「絶対に潜ってくれないと困る」と何度も言われ、トラブルにもなった。人が1人だけ落ちたのなら、丁重に弔う、時間をかけるのも弔いの在り方としては良い。けれども何百人が行方不明の状況ではどんどんご遺体の状況も悪くなっていくし、それを防ぐためには1日でも早く探さないといけないということで、あとでまとめて祈りましょうと提案したらしいです。なかなかできることではないですが。
 結局この提案は受け入れられて、彼の現場ではそうなったと言っています。名取全体でそうなったかどうかはわからないけれども、吉田がそばにいる現場では、そうした方針になった。あえて書いたのは、そういう考え方もあるということで、今まで見えなかった震災の側面が見えてくることもあるので。

杉原:本当にきれいごとじゃないですね。10年経っても見つからないご家族の気持ちとかを聞いていると、とにかく1人でも多く探し出してあげたほうが、多くの人の救いにもなるんだろうなと、10年経って改めて、吉田さんの判断って正しかったんじゃないかなって思いましたね。

矢田:ご遺族や、不明者家族の気持ちというのはこの本では盛り込み切れていないところがあります。そういう方に取材をしてお話を聞いたこともあるのですが、吉田さんと直接の接点があるわけでもないので、この話の中には盛り込みにくかった。たとえば報道されている方で、女川町で娘さんが行方不明で、潜水士の免許を取って自分で探しているという方がいるんです。その方は、娘さん見つけられてはいないんですが、海に潜っているほうが娘さんを近くに感じられるというようなことを言っている。それはもちろん震災直後からそのような気持ちだったかどうかはわからないですが、そうした気持ちの変化も出てくる。吉田さんが考える、見つかるか見つからないかという差もあるけれど、そうした当事者の方の気持ちも吉田さんの考えとは別にある。吉田さんが解釈する不明者家族の気持ちを今回書きましたけど、何千人という不明者の家族の数だけ、気持ちがあり、それが日々変化していくということも、我々は気に留めながらこの10年を振り返るということも大切なのかなと。

杉原:それでは、最後に一言まとめていただいて。

矢田:今回10年の節目というのが一昨日あって。最近報道でも言われているんですが、現地の人の中には節目ということに対して結構複雑な思いを抱いている人もいるらしいんですね。もちろんご家族の命日の大切な日でもあるけど、なぜか節目になると急に注目されるというのが結構複雑な気持ちらしくて。彼らからすると、毎日が特別な日なんですよと。その特別さは何かというと、毎日大切な人と会えない特別さ。それは10年間、一度も途切れることがなかったんですよと。なので10年の節目で心寄せていただけるというのはもちろんありがたいことなんですが、そうじゃないときもどこか心の片隅で思っていていただけると、現地の方々との気持ちも少し近づいてくるのかなと思いますので、これからも東北の報道とかあると思いますけど、皆さんの人生の一部として関心持っていただければと思います。