マスクへの憎悪を103年前に菊池寛が予言していた!
私は2021年に日経新聞のプロムナード欄で「マスク史の大転換期」というエッセイを書いた。
持病の関係で、私は80年代からずっとマスクをしている。だから、もう40年近くになる。その間、マスクに対する世の中の目がどう変化したか、身を持って知っている。
そして、そのエッセイの最後にこう書いた。
まだコロナ後ではないが、3日後の3月13日から、マスク着用が任意になる。
ただし、<着用が効果的な場面>についても書いてあり、その中にこうある。
にもかかわらず、JR東日本はこういう発表をしたそうだ。
こうした状況の中で、早くもマスクを外した人たちのことがTwitterで話題になっている。
これらが本当だとしたら、そうとう攻撃的だ。
たんにマクスを外しただけでなく、わざと近づいたり、追いかけたりしている。
なぜそこまでしてしまうのか?
ノーマクス派と呼ばれる人たちの中には、マスクをしている人たちを、「マスク奴隷」と呼んだり、「世界の恥さらし」と罵倒したりしている人もいる。
なぜそこまで口汚くののしるのか?
マスクという小さな布に対する、大きすぎる憎悪に、異様さを感じている人も少なくないだろう。
これがもし、「雨が降りそうなときは傘を持っていったほうがいい」という話だったら、「傘をさせば濡れないわけではない」などと性能を問い詰められたり、「傘の奴隷になりたい人間は、雨が降る前から持ち歩けばいい」などとののしられたり、ノー傘警察が登場したりはしない。
本当はマスクも同じことで、「感染症が流行っているのだから、マスクで完全に防げるわけではないが、いくらかは効果があるのだから、人混みではマスクをしたほうがいい」というくらいが、普通の考え方だろう。
ところが、そんなふうに冷静に考えることは難しくなっている。
それはもちろん、命にかかわる感染症が蔓延したからだし、マスクの着用が国の方針になったからだ。傘だって、放射能を含んだ雨が降り、傘の携帯が国の方針になれば、同じようなことが起きるだろう。
つまり、マスクの問題ではなく、状況のせいということだ。
マスクはその象徴だ。
人間を「象徴を操るもの」と定義したのはカッシーラだが、人はいろんなものをすぐに象徴的にとらえてしまう。
マスクを、ただマスクとだけ見ることは、逆に難しい。
こうしたマスクをめぐるあれこれを、じつは103年も前に描いていた人がいる。
そう言うと、すごい予言者のようだが、じつは作家の菊池寛だ。芥川龍之介などの仲間で、『恩讐の彼方に』『真珠夫人』などの作品がある。「文藝春秋」を創刊した人でもある。
その菊池寛は、スペインかぜを体験した。
スペインかぜとは、1918年から1920年にかけ世界中で大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称だ。日本でもたくさんの死者が出た。
その体験をもとに書かれたのが、『マスク』という短編小説だ。小説と言っても、随筆に近く、最初は「私の生活から」という副題がついていた。
初出は「改造」1920(大正9)年7月号。
103年前だ。
しかし、これを読むと、まさに今のことが書かれているとしか思えない。
こういう短編があるとは知らなくて、去年初めて読んで驚いた。
最初のうち、菊池寛はマスクをつけることに、とても熱心だ。
こう友達に言っている。
ところが、いったん減少しはじめたスペインかぜが、また増えはじめる。
そうすると今度は、マスクに対する考え方が大きく変化する。
「病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云うことは、それは野蛮人の勇気だよ」と言っていた人が、マスクをしている人に対して「いやな妖怪的な醜くさをさえ感じ」るようになったのだ。
その大きな変化のポイントは、いつまでも「感冒の脅威から、脱け切れないと云うことが、堪らなく不愉快」になってきたことにある。
これは、ずっと病気をしている私には気持ちがよくわかる。
一時的な制限なら、どんなに厳しい制限でも、けっこう人は耐えられる。
しかし、ずっととなると、とても苦しくなる。「継続は力なり」という言葉は、こういう場合にもあてはまる。長くなればなるほど、そして休みがないほど、それはこたえてくる。
苦しさはどんどん増してきて、「もうどうなってもいいから、こんな我慢は耐えらない!」とキレてしまう。キレたら死んでしまうかもしれない人だけが、それでもさらにぐっとこらえるが、自分は死なないと思っている人なら、そのままキレてしまうだろう。
そうなったとき、どうなるか? 我慢してきた最中にやってきたことすべてに対して、強烈な憎悪を感じるようになる。マスクとか、アルコール消毒とか、アクリル版の仕切りとか。
とくにマスクは中心的な象徴だ。
ノーマスクの人が、高齢者や妊婦を追いまわすのは、マスクをしなければならないのは、とくに高齢者やリスクのある人たちのためだからだろう。「感冒の脅威から、脱け切れないと云うことが、堪らなく不愉快」という気持ちを、そういう弱者を憎悪することによって晴らそうとしてしまうのだ。
マスクをつけつづける人間にも、憎悪が向けられるだろう。
私はもともとマスクをつけていたわけだが、そんな区別は相手にはわからない。今後は、見知らぬ人たちから、「いやな妖怪的な醜さ」を感じられ、憎悪を向けられることになる。にらみつけられたり、ドンとぶつかられたり、悲しくなることをされるのだろう。
しかし、これは嫌味でもなんでもなく、素朴な疑問なのだが、こういうことをする人たちは、自分のことをどう思っているのだろう?
もちろん、自分たちが正しいという信念に基づいているのだろうが、それでも、やっていることはひどい。そのひどさについては、どう思っているのだろう?
ドラマや映画で、自分たちと同じようなことをしている人たちが出てくることがあるだろう。よくは描かれていないはずだ。そういうのを見て、どう思うのだろう?
描き方がよくない! と怒っているのだろうか?
それとも、自分のこととは思わないのだろうか?
それがいつも気になる。
教えてほしいけど、そういう人に「どうなの?」と聞くわけにもいかないから、いまだに答えを知らない。
それにしても、こういう心理を見事に、しかも自分のこととして描いた菊池寛は素晴らしいと思う。
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