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魔法の手

予定よりも少し遅くなってしまったが、面会時間の受付には間に合いそうだ。

まだ電車が来るまでには3分あるのだが、なんとなく駅のホームに降りる階段を早足でかけ降りる。先週の今頃は、10月に入ったというのにまだうだるような暑さで、外回りの移動中は大きめのタオルハンカチを握りっぱなしだったのだが、今週に入って少しずつ秋の過ごしやすい空気を感じるようになってきた。時折り吹く風がワイシャツを抜けると気持ちが良い。

夕方の東横線は空いている。3人がけの席の一番端に座ると、向かい側には母親と男の子が座った。黒いランドセルを前に抱え、深く腰掛けた膝の上に乗せている。今日も元気に走り回ったのだろう、白地に青いラインの運動靴はそこから伸びる白い靴下と同様、そこここ土で汚れたあとがあり、電車の揺れに合わせるようにプラプラと揺れるたびにかろうじてつま先が床を擦っていた。背格好からすると甥っ子の友樹と同い年くらいだろうか。

西陽が男の子の頬を照らすと、目を細めながら母親を見上げる。

「まぶしいね。」
「ね。」

母親も目を細めながら微笑みそう答えると、ランドセルを抱える小さな肩に手を回し、自分の方にそっと抱き寄せた。

***

小学3年の学芸会で、僕のクラスは演劇をすることになった。オスカー・ワイルドの『幸福の王子』という演目で、王子の像が人々の貧しい暮らしを憂いて自分のきらびやかな装飾の宝石や金をツバメに頼んで配るという感じの話だったと思う。当時、授業中にみんなの前で発言しなければならないことが決まっていると、前の日の夜から食事が喉を通らないほど引っ込み思案だった僕にとって、演劇は地獄だった。前の年のクラスでは合唱だったから、一番後ろの列で前の人の陰に隠れながら口をパクパク動かすだけで済んだのに。

結局、担任の意向でクラス全員、最低でも一言はセリフを与えられることになり、僕は『村人11』という役を演じることになった。僕の出番は、劇の中盤に舞台の右側から出て、ツバメ役の子から段ボールに黄色いセロファンを貼り付けた"金の破片"を受け取り、それを頭の上に掲げながら『これでパンが買える!』とセリフを叫び、舞台の左側に捌けるというものだった。

夏休み中は週にニ度、登校して教室に集まり、劇の練習をした。何度も練習をしていれば少しずつ慣れてくるもので、僕の棒読みのセリフからはパンを買える喜びは伝わらないものの、教室の後ろで観客役をしている担任に、ちゃんと声が届くくらいにはなっていた。


しかし、学芸会本番の前日、あんなに練習したことを全て忘れてしまったかのように案の定僕は不安と緊張でいっぱいになってしまった。明日頑張れるようにと母が作ってくれた好物のコロッケは、箸で俵型の端っこを斜めに割って口に運ぶも味はわからず、なかなか飲み込むこともできなかった。ダイニングのテレビではアナウンサーが19時を伝えていた。

そんな様子の僕をテーブルの向かい側から見ていた母はすっと立ち上がり、僕の席の隣の父用の椅子の背を掴むと、こちらに向けて90度動かし、座った。優しく目を細めて僕の目を見つめながら、僕の左手を下からすくって手を繋ぐようにして、もう一方の手は手の甲にのせ、上下から包み込んでぎゅっと握ったのだった。

その時、どんな言葉をかけてくれたのかはすっかり忘れてしまったのだが、母の手は大きくあたたかく、緊張でヒヤリと嫌な感じがしていた僕の心臓のあたりに、握られた左手からじわじわとあたたかいものが流れてきた感覚は今でも思い出すことができる。

その後、なんとかコロッケを1つ食べ切った僕は、翌日もなんとか棒読みのセリフを言い切り、大きな初舞台を終えることができた。その日の夕飯はナスと挽肉が入ったカレーライスで、僕はコロッケの分を取り戻すようにおかわりしたのだった。

***

駅に着く頃には、病院へ向かう道の街灯がぼんやり点き始めていた。

受付で名前を記入すると、ショートカットのナースがカウンターの電子時計を確認し、名前の横の欄に『17:56』と書き足した。

「橘さんの息子さんですね。今日もさっきまでお姉さんがいらしてたけど、ちょうど入れ違いになっちゃったわね。」
「はい。あ、そうでしたか。」

はいこれ、と渡された面会者用の札を受け取り、お礼を述べながら首にかける。

「8号室、ここ真っ直ぐ行ってもらって突き当たりを左ね。」

もう一度お礼を言って病室に向かう。引き戸をゆっくりと開けると、部屋は薄いカーテンで区切られていたが、奥に進む。姉から母のベッドは一番右奥だと聞いていた。

静かにカーテンを引くと、母は眠っていた。ベッドは部屋の窓に面しており、厚手の深緑のカーテンが閉まっていた。脇には小さなテーブルがあり、友樹が描いたと思われる絵と、オレンジ色の小さな花をつけた金木犀が一枝、牛乳瓶のような花瓶にささっており、甘く柔らかい香りがしている。

さっきまで友樹も一緒に来ていたのかもしれない。エネルギッシュな孫の話し相手をして疲れたのだろう。僕はベッドの手前にあった丸椅子に腰掛けた。
眠っている母はとても小さかった。薄がけの上に出た腕はとても細かったし、手の大きさも僕の指の第一関節と第二関節の真ん中くらいまでしかなさそうだった。
僕は母の小さな左手をとり、上と下から両手で包むと、ぎゅっと握った。

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