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通り雨

白いマグカップにコポコポとコーヒーが注がれる。
ミルクをくわえ、くるくるとかき回すと湯気と一緒にほわっと香ばしい香りがする。

姉、玲ちゃんとは、9つ歳が離れている。
玲ちゃんは2年前に悠介さんと結婚し、今は1歳になる望と3人でここ埼玉でのんびり暮らしている。
丸の内の総合商社で働いていた玲ちゃん。結婚を機にあっさりと会社を辞めてしまった。
都会の真ん中でバリバリ働く玲ちゃんを、どこか誇らしく感じていた私は、結婚報告よりも仕事を辞めることに驚いた。

「もう痛みはないの?」

「うん、まあ大丈夫。もう痛くないよ。」

「そう..。なら良かった。」

実際、治療やリハビリのおかげで痛みはかなりひいていた。
激しい運動は避けなさいと言われているものの、先生によると今後の日常生活に大きな支障はきたさないそうだ。


ーあっ...!
やばい、と思った時には手遅れだった。
気がついたら空中に身を投げ出され、次の瞬間、目の前の景色は地面のコンクリートだった。
左脚がぐにゃりと変な方向を向いていたが、状況を飲み込むことができず、誰かが呼んだ救急車が到着するまでの間、倒れてもなお回り続ける自転車の後輪をぼーっと眺めていた。


小学校から11年間、続けてきたサッカー。
平日の放課後は勿論、土曜も日曜も練習に明け暮れ、他のことに興味を持つ暇も無いくらい、最高に楽しくて辛い日々を送ってきた。

チームメイトにも恵まれ、この1年はキャプテンとしてチームを引っ張ってきたし、夏のインターハイが自分のサッカー人生の集大成になると思っていた。
それに向かって全力投球してきたが、その成果を見せることは叶わず、急に引退の時はやってきたのだった。


コーヒーとお手製クッキーで小腹が満たされ、心も体もほっこりと温まる。
しかし、頭の片隅ではずっとサッカーのこと、これからのこと、ぐるぐると考えてしまう。

私はこれからどうするんだろう。
別にプロになりたいと思っていたわけじゃない。
サッカーを辞めることは決まっていたし、どうせこの夏には引退だった。でも最後までやり切って自分で辞めるのと、出来なくなって辞めるのとではやっぱり違う。
担任には進路について考えるよう言われているけど、こんな中途半端な幕切れで、将来のことを考えるなんて無理だ。

急にゴールを失った喪失感、自分への怒り、みんなへの申し訳なさ、やり切れず終わってしまうことへの悔しさ、色々な感情と向き合うのが怖くて、事故以来部活には顔を出せていなかった。


「ねぇ、玲ちゃんはどうして仕事を辞めちゃったの?」

「うーん、そうねぇ...私は仕事が大好きだったし、悩んだよ。結婚しても仕事を続ける人の方が多いし、ママになっても子育てとキャリアを両立してる友達も沢山いるし。
ただ、望を妊娠したことが分かって、自分のキャリアより、この子の成長を一瞬でも見逃したくないって思いが強くなったのね。それで辞めよって決めちゃった。」

「辞めてよかった?」

「うーん、わからないな。バリバリ働くママ達を羨ましく思うこともあるし。
でも、あの時の私は悩み抜いて仕事を辞める道を選んだし、後悔してないよ。今は兎に角、自分が今いる環境で、できることを精一杯やるしかないからね。
これが正解だったかどうかは、望の子育てが終わったそのときに、やっとわかるんじゃないかな。」


玲ちゃんの家のリビングには大きな窓があって、そこからウッドデッキに出れるようになっている。
デッキは裏庭と繋がっていて、裏庭には一面、夏芝が生えていた。
冬の濃い緑のそれとは違って柔らかくはなく、緑と黄色が混じったような色の硬い葉が、ツンツンと太陽に向かって生えている。

芝の表面を、手で撫ぜるように触る。
グラウンドを走って息が上がったまま、芝生に寝転がってこの緑の匂いを一杯に吸い込んでいた日々のことを思い出す。

インターハイには出られないけど、あの日々が無かったことになるわけではないのかな。
私にもまだできることがあるだろうか。何が正解かは分からないが、それをやり切ったら、10年後、20年後、今を振り返った時に後悔なく思い返すことができるだろうか。

明日、みんなに会いに行ってみようかな。


「あっ!雨!大変!」

夏の通り雨だ。
明るく太陽は照り続けているのに、サラサラとした雨がウッドデッキを少しずつ濃い茶色に染めあげていく。
玲ちゃんは、急いでピンクのうさぎのタオルケットと、望の小さな靴下が6足ぶら下がったハンガーを取り込んでいる。

「望、見ててね!」
「うん。」

ふと望のほうを振り返る。

すると、ウッドデッキの縁でつかまり立ちしていた望がその手を離したのだった。
ぐらぐらと危なっかしく身体を揺らしたが、次の瞬間、右足をぐっと前に出し、芝を踏みしめる。

「玲ちゃん...玲ちゃん!望、歩いてる!」


まだ自分が何者かも知らない君が、ただ真っ直ぐに未来を見据え、真っ直ぐにこちらへ手を伸ばし、一歩一歩、地面を踏みしめる。
不安定に、しかし着実に歩みを進めている姿は、燻っていた私の不安や迷いを払い、前へ進めと背中を押したのだった。


いつのまにか雨は止んでいた。
雨上がりの芝は、キラキラ輝いていた。






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