テーラードジャケットと私

テーラードジャケットは今や若者がカジュアルな場面でも取り入れる服だが、元々はスーツの上着そのものである。というかテーラードジャケットの形自体は現在でもスーツと同じなのだが、いわゆるTPOによって「ジャケット」と「スーツ」がなんとなく区別されている。仕事で着るきっちりしたものがスーツそれ以外はジャケットという具合に。
私はジャケットを着るのが好きだ。それもきっちりしたジャケットが好きだからカジュアル服の店ではなくきっちりしたスーツも扱う店に行くことが多い。そこで先程のスーツとジャケットの区別にぶち当たるのだ。私がジャケットが欲しいと言うとお店のスタッフの方は必ず最初に「お仕事用ですか」と私に聞く。それから私がいいえ違いますと答えるとスタッフの方はけっこうな割合で対応に困った様子になる。要はお店に置いてあるきっちりしたジャケットは仕事用の服であって、それ以外のシーンで着ることを想定していないのだろう。
一般的なTPOで言えば、きっちりした服を着るのは仕事をする為だろう。しかし私にとってはきっちりしたい理由は他にもあって、その為にスーツやジャケットを着たいと思っている。

私がジャケットに興味を持ったのはワインの輸入販売をしている小さな会社に居た時だった。会社が地方の百貨店で行われる催事に出展し、私はそこでワインと軽食を提供するブースを担当していた。催事には会社が取引をしているワイナリーの経営者の方が視察に来ていた。その人は若いアメリカ人だった。
その夜、アメリカ人のワイナリー経営者を居酒屋に招いて取引するワインの試飲会と懇親会が開かれた。同席した私は小さな会社の貴重な若い社員として紹介され、新人ながら私は経営者の方を相手に会話する機会を得たのだった。
そして懇親会の後、二軒目に行った居酒屋で、私とワイナリーの経営者は相撲を取っていた。二人ともかなり酔っ払っていたのだ。相手はとても陽気な方で酒が入って陽気さに拍車がかかったうえ、私も酒を飲み出すと止まらない性格だった。それで他愛のない話をしているうちになぜか相撲をやろうということになり、面白がっていたお店の人を巻き込んで机を動かし、四つを組むことになっていた。相撲の取組みに満足した私たちはハイボールを飲みなおし、ワイナリーの仕事のことや私の将来の夢について気さくに話をした。
次の日、私と相撲を取ったワイナリーの人が帰る時間が来た。お互いに二日酔いの頭痛を訴えながら握手を交わした時、彼は私に「君と会うならもっと良いジャケットを着てくるべきだった」と言ったのだった。
彼の取引先の社員とはいえ、私は商談に関わらないただの新人だった。交わした会話も仕事に関係しない内容が多かった。それでも彼は今回の視察に選んだジャケットよりもちゃんとしたジャケットを着てくれば良かったと言ったのだ。彼の「良いジャケットを着てくるべき」という言葉には、ただの新人ながら忌憚なく会話をして一緒に相撲を取った私を尊重してくれる思いが込められていた。そして彼にとってジャケットは相手を尊重する思いを表現するものだった。

服装によって相手への尊重を示すことは常識かもしれない。しかし実際にその気持ちを伝えられた時、私は感銘を受けた。TPOのルールだけでなく、個人を尊重しようとする素直な気持ちが彼の言葉にあった。私は別れる時になってアメリカからやって来たその人を改めて尊敬した。そして彼のように人を尊重する気持ちを表せる人間になりたいと思った。
そんな経験をした催事が終了してすぐ、私はジャケットを買いに行った。私が着たいのは仕事に使うだけでなく、会う人に尊重の念を表せるようなジャケットだ。それは丈が身体に合って、襟がきっちりして、縫い目が乱れていないきっちりしたジャケットだ。そんなジャケットを着た時、私はあの時出会った彼に近づけただろうかと考えるのだ。