異形のVTuber「マシーナリーとも子」の死に同人オタクの本懐を見申す

VTuber(バーチャルユーチューバー)として活動する「マシーナリーとも子」は、公開した動画の中で一人の同人オタクとしての本懐を吐露した。この記事では彼女の活動を紹介し、敬意を表したい。

マシーナリーとも子とは

「マシーナリーとも子」とはYouTube上で活動しているVTuber(バーチャルユーチューバー)である。現在34本のYouTube向け動画の他に不定期の生配信とTwitter限定動画を公開しており、Twitter、Pixivなどでも活動している。マシーナリーとも子本人が作成したポータルサイト上では活動の詳細やキャラクター設定を読むことができる。
YouTube マシーナリーとも子チャンネル:mechinery_TOMOKO
マシーナリーとも子Twitter:@barzam154_
マシーナリーとも子ポータルサイト

これがマシーナリーとも子の外見だ。

VTuberの活動とは簡単に言うと「もしもキャラクターが動画配信者になったら」という演出で動画を作成したり生放送したりすることだが、マシーナリーとも子の活動は他のVTuberに比べて異形と言えるほど特殊だ。

大半の人気VTuberはキャラクターの外見にこだわり視聴者を喜ばせるコンテンツを公開しているのに比べて、マシーナリーとも子の活動は多くの視聴者に対してかなり不親切だ。マシーナリーとも子の容姿は正中線をどこに引いたのかわからない感じに微妙に歪んでいるし、塗りつぶしツールで適当に彩色したようにしか見えないし、声もgoogle翻訳の音声機能を加工したみたいでかなり聞き取りづらい。また動画の内容は自分の趣味や私生活に関することで、趣味が合致する視聴者にはウケが良いだろうが一般ウケするとは思えない。

さらに変わっているのは、マシーナリーとも子が自分で作った同人マンガの宣伝をしていることだ。しかもその同人マンガの内容は自分自身を描いたものではなく、ソーシャルゲーム『アイドルマスターシンデレラガールズ』シリーズに登場するキャラクター「池袋晶葉」を描いたものだ。

そもそもマシーナリーとも子は、大半のVTuberが自分自身を売り込むのに対して、この池袋晶葉というキャラクターを広めるために活動していることを公言している

彼女の活動の真の目的

マシーナリーとも子が活動する目的は、前述の通り池袋晶葉を広めることにある。アイドルマスターシンデレラガールズについてはこの記事では説明を省略するが、年に一回開かれるそのゲーム内のキャラクター人気投票で上位入賞すればメディア露出が増えるというのが池袋晶葉を広める動機だ。この「布教活動」には趣味と呼ぶには熱すぎるマシーナリーとも子の情熱が注ぎ込まれている。

そもそもマシーナリーとも子は池袋晶葉を広めたくて活動していた同人作家の手によって生み出された(現在はその作家自身がマシーナリーとも子を名乗っているので、マシーナリーとも子に「なった」と言うべきかもしれない)。その経緯についてはこちらのブログに詳しく書かれているが、マシーナリーとも子は以前から行なっていた同人活動の一環としてVTuberの活動を始めたのだ。

そうして作成されたマシーナリーとも子の最初の動画「マシーナリーとも子 第1話」には、マシーナリーとも子が池袋秋葉にデレデレする姿が描かれている。その後も事あるごとに池袋晶葉の魅力を語っている。彼女の熱意に興味を持った人はぜひ動画を視聴して欲しい。

現在に至るまでマシーナリーとも子は徹頭徹尾自分の好きな池袋晶葉のために活動している。それを知れば彼女がVTuberとして異形に見えた理由にも気付くだろう。マシーナリーとも子にとって自分自身の見た目や人気は二の次であって、一番大切なのは自分が好きな池袋晶葉なのだ。マシーナリーとも子が池袋晶葉より可愛くなるようなことは間違ってもあってはならないのだ。彼女はVTuberだが、それ以前に池袋晶葉を愛するまごうことなき一人の同人オタクである

同人オタクという孤独な戦い

筆者はマシーナリーとも子を一人の同人オタクと言ったが、同人オタクとはどうしようもない孤独と背中合わせの活動である。例えばマシーナリーとも子が広めようとしている池袋晶葉は人気投票で上位からかなり差を開けられている、いわゆるマイナーなキャラクターの地位にあり続けている。同人の用語では池袋晶葉のマンガはマイナージャンルの作品と呼ばれ、人気のあるキャラクターを題材にした作品とは作品数も認知度も違ってくる。

元来同人マンガは作家が描きたいものを描くという動機で作られるものだから、売り上げや人気を考慮すべきではないと言う意見もある。だが、マンガという創作物は他人が読むようにできている。絵、小説、評論など他の表現についても同じことが言えるが、創作物を形にするということは他者と共有できる形にするということであるから、他者に共有されないことは創作物の存在意義が危ぶまれる事態と言っても過言ではない。

自分の作りたいものを作る同人の場において、自分が好きで作ったものが他者に受け入れられないという孤独な事態は、自分がそれを好きであることを否定されたという感情に結びつきかねない。

マシーナリーとも子が直面しているのはその現実に他ならない。第一に彼女が志す池袋晶葉を広めるという活動は、実際に人気を得て人気投票の上位に入らなければ成果を上げることができないのだから。彼女は個人的に池袋晶葉を好むだけではなく、マイナージャンルという孤独な状況で活動しなければならないのだ。

マシーナリーとも子 第34話」ではその苦しみが吐露されている。そしてその告白の直後にマシーナリーとも子は愛する池袋晶葉が保存されたスマートフォンを守って、死亡してしまう

マシーナリーとも子の未来

マシーナリーとも子の苦しみ、そして死には彼女の同人オタクとしての生き様が表れている。彼女が自分の愛するもののために活動することは、自分の好みと他者との間でせめぎ合って生きることに他ならない

そもそもオタクとは、他者の目から異様に見えるほど自分の好きなものにのめり込む人間のことを意味する。オタクは他者との関係を絶って、自分の好みを追求することもできる。筆者を含め大半のオタクはそうやって自分の好きなアニメなりゲームなり、マンガや鉄道や車やバイクを消費して暮らしている。

しかしオタクには自分の好きなものを他者にも広めたいと思うことがしょっちゅうある。それはエゴイスティックな、あまりにも不条理な欲求かもしれない。

多くの同人オタクはそのエゴと他者の間で揺れ動きながら創作しているのだ。作家たちがじぶんの創作物に追い求める良さはエゴと他者の両方の基準を満たさなければならない。それは間違いなくセンシティブな活動のはずだ。

マシーナリーとも子は同人オタクとしてのセンシティブさを包み隠さず吐露し、苦しみながらも最期の瞬間まで池袋晶葉を愛する同人作家であることを貫いた。それこそが同人オタクの本懐である。筆者は彼女の潔さ、誠実さ、そして勇気を尊敬する。そして筆者は今後マシーナリーとも子が創るものに期待している。「マシーナリーとも子 第34話」で描かれた彼女の死は、マシーナリーとも子が未来に何があっても池袋晶葉を愛したいと言う情熱の表れだと筆者は思う。彼女の情熱が創り出すものはきっと素晴らしいものに違いない。