”ながれ”をとりもどす
うわあ。珍しくどしゃ降り。
なんだか一斉に日本をお掃除してくれているような気分。
どうせなら、自分のアタマも”お掃除”するとしよう。笑
今日は日本手話について。
もっと言えば、なぜ日本手話に魅せられたか?
について書いてみよう、と思う。
私が手話に触れはじめたのは、中学1年の終わり頃。
きこえない子どもたちが集まる場に、
母親に連れられて渋々やってきたのが始まり。笑
最初は指文字すら覚える気は毛頭なく、
どこか身構えていたものの、
口話には無い、
会話(対話)のスムーズさ
に次第に魅せられていった。
かくして中3・高1の頃には、
なんとか手話でやりとりができるように。
その時はまだ、
日本語対応手話や日本手話の区別は
ついていなかった。
おそらくは日本語対応手話寄りだったように思う。
どのようにして日本手話に魅せられていったか。
高齢ろう者とのお付き合いが増え、
ろう文化について知る機会もいただけるようになった、
ということも大きな要素の一つ。
ただ、今回は”ながれ(流れ)”について触れていきたい。
結論から言えば、
日本手話には”ながれ”がある。
というより、
”ながれ”を感じる。
いうまでもなく、
日本語対応手話は書記・音声の日本語に即している。
”手指日本語”と言われるゆえん。
(これらの2つの違いについての
細かい解説は他に譲る。)
日本語対応手話は日本語の文法に即している。
例えば、
「昨日、面白い本を読んだ。」
日本語対応手話の場合、
昨日/面白い/本/読む/終わる
日本手話の場合、
昨日/本/読む/面白い/
前者の方が”ながれ”を感じにくい…
となってしまうのはなぜか。
それは、
”結果”(面白い/)が先に来るから
…ではないか?と踏んでいます。
ヒトの認知の順番でいえば、
本を読む→面白い
となるわけですよね。
読む前から面白いとわかるのは、
エスパーくらいですかね。笑
冗談はさておいて、
日本手話においては、
原因→結果
つまり、
行動→感情・感覚
という”ながれ”がハッキリしているように
感じられます。(個人的には)
日本手話母語のろう者は、
”視覚”を主な感覚としている以上、
”視感覚に沿ったながれ”で”再現(体現)”している
ことになるのでしょう。
ビデオカメラでノンストップ撮影したものを、
巻き戻してもう一度再生するかのように。
ということは、
”時間(時系列)”も関係してきますネ。
本を読む→面白い
つまり、
過去→現在
原因→結果
行動→感情・感覚
”ながれ”があるほどに具体的。
思えば、その”具体性”に惹かれたのかも。
一方、日本語は抽象的。
「抽象」というのは、しぼり取って(抽出して)、
カタチにする(象る)こと。
日本語によって、しぼり取られる中で、
”ながれ”も失われているのかもしれない。
その抽象的な日本語が主な口話時代では
味わえなかった”具体”、
つまり”ながれ”を32歳の魂が欲している。
手話を通して、
これまでにしぼり取られていった
”ながれ”を拾い集め、
「入れもの」や「道具」でしかなかった
日本語をも、よみがえらせたい。
自分の気持ちをこうして文字に表せるのも、
日本語のおかげでも、あるのだから。