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きこえナイから調べナイ?

:「どうして調べないの?」

昔、結構自分がそう言われたことがあったので、

”きこえないヒトは調べナイ?”

という仮説を立ててみた。
正直合っている自信はないが、きこえない自分自身、
どうも妙にこの仮説にココロが揺らいでしまっているので、
すっきりさせるべく、とりあえずは筆を進めてみようと思う。

:”めんどくささ”より深い要素とは?

「どうして調べないの?」
そう言われた時にふとワレに返る。

「そうだよなあ…調べた方が色々比較できるし、参考になるもんなあ。」

つい少し前まではこんな感じだった。(今も名残はあるが笑)

どうしてなのか。
面倒くさいからか?
うん、それもある。人間だもの。(笑)

…それで終わってしまうと、
この記事を立ち上げた意味が消え去る。
時間ドロボー!カエレ!!…とか言われかねない。

逆に、ここから掘り下げることで、
メンドくささに打ち勝てるかどうかといった、
”個人の精神力差”を超えた何らかの要素が見つかりそうな気がするのよなあ〜。
つまり、”きこえの差”からくる要素ではなかろうか。

:情報には必ず”人”が関わっている

”きこえの差”から思いつくのは”聴覚(聴力)”。
そこから導かれたるもう一つの要素、それは。

”情報量”

《 ”情報量”に絡むいくつかの要素 》
・聴覚障害者によっても違う”きこえの程度”
・生まれた時の”周辺環境”(父母兄弟etc)
・その後の人生での”人間関係(人脈)”
・それらの影響を受けて出来上がってくるその人特有の思想からくる”偏り”
(※”偏り”が生じると、無意識に情報の取捨選択が進みやすいと考えています。)

やはりかあ…と思う気持ちが強くなってくる。

”情報”には必ず”人”が関与している。

「え、アタリマエのことやん?」
と自分でも思いましたが、
何だか本質的な響きを自分の中で感じました。
まるで『三角形の内角の和が180°な理由』がわかった時みたいに!!
(え?しらんがな、って?)

:”偏り”の伝染

戻して…と。
”情報”には”人”が必ず関わっている。
先程の情報量に関わる要素の最後の項目、覚えていますか?

あらゆる周りの影響を受けて出来上がってくる、
その人特有の思想からくる”偏り

自分も含めて、皆誰しもそれなりに考えの偏りを持っている。
自分の生立ちを振り返ってみると、
さほど他人とのつながりはなかった(薄かった)。
言い換えてみれば、特定の人とのつながりが強かった

つまり、その特定の人からの影響(思想)を受けやすい(染まりやすい)。
語弊があるかもしれないが、
その人を通しての”洗脳”が進みやすい
もちろん、その人に洗脳するつもりは毛頭ないにしても。
その人との親密さが増すほど、
その人からくる”情報”はより信憑性を増す(真実味を帯びてくる)
真偽が定かでない(ウラが取れていない)情報であったとしても。
これは”根も葉もない噂”のメカニズムにも一枚噛んでいるのだろう…。

つまり、
特定のヒトを”信じて(盲信して)いる”からこそ
その人から得られた情報について”調べない”。

もっと言うなれば、”疑う必要がない”

書いていて、
確かに昔の自分はそう思っていたフシがあったな…
とさえ思うのです。ただただ特定の人にだけすがっていた
その人からの情報だけでも何とかやっていけると。
そして、疑うことを知らない、まさにバカ正直者でした。(笑)

”調べない”ということは、
特定の人(または自分自身だけ)を信じやすく
疑うことをあまりしないこととのつながりが、
自分の過去を通して少しずつ見えてきました。

:偶発的な情報がもたらすこと

ではどうして偏ったままになってしまいやすいのか?
肝心の”きこえ”とどう繋がってくるのか?
それはやはり、

特定の関係外からも入ってくる情報の有無。

もちろん自分は予めその情報を知ろうと思っているわけではない。
ですが、それが意外に自分の”偏り”を別視点で見ることにつながりうる。

例えば、わかりやすくするための、極端な例ですが、
「AさんがBさんに『太ったね』と言ったから、Bさんは怒ってる。」
という話(噂)を聞いたとしましょう。
「自分だったら、別に『太ったね』と言われても、怒らないのになあ。
 …それでもBさんは怒るんだな。人によって違うのか…?」
とも思う可能性は高まってきます。

そういう自分の外での出来事を”偶発的に知る”ことで、
自分の中にある”偏り”を多角的に見やすくなるのでは…?

要するに、例のように、外からの偶発的な情報を知る機会が、
きこえない人には比較的少なく、それが”偏り”を助長させている

情報を吟味する(真偽を疑う)余地さえなくなっていく。
と、にらんでいます。

:自他を”良く”疑う

逆に言えば、”調べる”ことは、調べ方にもよりますが、
偶発的な情報を知ることと似た効果があり、
そういった”偏り”を和らげる働きがあるのだと思います。
(※”ネット検索”の場合は”偏り”のひとつなので、難しいところ。)
(※※そもそもデジタルとは”指向性”。自分の”偏り”が反映されやすい。)

”偏り”は悪いイメージがいまだに濃いようですが、
その人ならではの”軸”であり、”良さ”でもあるので、
それも大事に(尊重)しつつ、
”調べ”を通して、別の視点(情報)からも眺められるようにすれば、
比較を通じて、気づかなかった悪い点や、良い点を
見つけては深めやすくなるのではないでしょうか。

信じることはもちろん大切ですが、
良く”しらべる”ためにも、
自他を良く(うまく)疑うことも覚えていこうと思います。

自戒の念をこめて。

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