「覧終待終」について

皆様、初めまして!

鵲-kasasagi-というものでございます

タイトルでピンと来た方はなるほど、拙作についてよくお見知りおきで

・・・{この記事は自身が作詞・作曲した『覧終待終』という曲の歌詞について少々綴(つづ)った現代笏(しゃく)です}・・・

御誂(おあつら)え向きの拙文はここまでにして早速本題に入ります

「終わりを覧(み)ながら、終わりを待つ」

そうタイトルで語っている通り、「人類が滅亡した未来の地球でせっせと生きようとする『人間』っぽいロボットからの現代への手紙」をテーマにしています

人間が作ったモノであるロボットはバッテリー切れという最期を目の前にして、『どう考え、どう動くのか?』

「機械」を生み出してしまった『人間』という生き物が存在し続ける限り、尽きる事の無い永遠のテーマだと思います


舞台は100年後の地球・・・核分裂反応を用いた兵器や発電施設によって『自滅』した人類の作ったロボットが「動物実験によって一つ目になった『ラット』」や「品種改良によって三つ目になった『牛』」と共に生活しています

『ロボット』も、『ラット』も、『牛』も、全部人間のエゴが生み出した「自律的に動くモノ」です

(人間が生み出したモノが人間のいない世界で動いているって、なんだか不思議...)

そんな生活をしている中、ロボット以外の「みんな」は、水が無いと生きることができない

だから、住んでいる所から、ずっと遠くまで水の要らないロボットが水汲みに行くのですが、そもそも干上がってて、水なんて無い...

でも、水なんて無くても、『帰って姿を見せる』だけで安心する「みんな」がいると「思った」ロボットは次に、

「早く帰ろう」

と動くのです


蛇口を捻(ひね)れば、水が出てくる『昔の人達』は何を思うんでしょうね?


帰り道、メモリのどこかにある歌を口ずさんでいると、荒野でふと踊っている『自分』がいた


人類が『終わった』後を『覧ながら』


自分自身の『終わり』を予期しながら、


前向きにも、後ろ向きにも、終わることを『待つ』


我々にとって『生きる』とは何でしょう?

我々にとって『命』とは何でしょう?


日々に忙殺され、人と共に笑うことを忘れ、『ロボットの様に生きる昔の人達』に向けた、

『人間らしい感情を持ちながら、人間にはなれない100年後のロボット』からの

100年後からの手紙であり、

現代社会批判です


『歌いましょう』

『踊りましょう』

『笑いましょう』

『生きましょう』


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