Yorunomono
ふわっと男の爪先が月に照らされ、ゆっくりと歩くとともに暗闇から頭が現れる。口元まで隠された首巻きと頭に巻かれた手拭の隙間から、垂れ目が瞬きをする。
着物の裾をまくって股引をあらわにした作業着姿の男は、力仕事を主にしているのか肩幅や胸板が厚く、町人風情としているがしっかりとした足取りだ。
男は幕府公認の花街—島原を横目に通り過ぎ、東西両本願寺の門前に広がる数珠屋町も過ぎる。仏壇,仏具,法衣を扱う店が軒を連ねていて、まさに本願寺を中心に栄え、門前町の風情が漂っているにも関わらず、街並みは木造二階建ての商家が多いのが面白い。
周辺の店はもう閉まっており、がらんとしている通りを右へ左へと迷いなく進む。四条通りに近づけば、徐々に人の気配が増え、河原町の明るさが遠くに察せられるところで、露店もぽつぽつとし始めた。
夜になると木枯らしが、というと物寂しい気がするが今夜は月を肴に月見酒がしたいと心が弾む秋冬の季節であった。
男が一軒の居酒屋で立ち止まる。
「あら! ゲンさんじゃない!」
ゲンと呼ばれた男が暖簾を手で小さく上げると、いの一番に気づいた女将が下げていた食器をそのままにゲンに駆け寄った。
「どーも、空いてる?」
「やだ、ゲンさんなら空いてなくても空かすわよぉ!」
女将に引っ張られるようにしてゲンは店の奥に座らされる。
「ゲンさん久しぶりじゃねえか」
席に着くなり、肩をどつかれあれよあれよといつの間にかおちょこが目の前に、そして熱燗がなみなみたっぷりと注がれた。。
わらわらと土方の身なりをした男衆が集まり、ゲンを歓迎する。
「あんたに直してもらった鋸、調子が良い。また頼むよ」
「ああ、俺も俺も。ゲンさんに直してもらったカンナが凄いんだ。仲間の連中にも紹介しろって頼まれちまった」
ゲンはあたりを見渡し、知らない顔があるねと隣に座った男に話しかけた。
「ああ、あいつかい。新顔だよ、最近ここらへんにきたんだと」
「竹斎さんのとこに厄介になってるんだってよ」
「へえ」
ゲンは言葉少なに久々の酒の席を楽しむ。
常連客の好みを把握している女将がゲンの前に、田楽と茹でタコを置く。
「あの子、気になるの?」
「ん、どうだろうね。わしは人見知りするから」
お酌をする女将さんに相槌しつつ、新顔を見やる。
体格は良いようだ。かなり上背があるように思える。西の出身なのか、少し訛りがあるが気にならない程度。おさがりの着物で寸足らず。土木の男達のような荒くれたがさつな印象はないが、田舎から出てきた特融のおぼつかなさが愛嬌を感じさせる。
と、ゲンが観察しているとたまたま振り向いたその新顔がこちらを見て破顔した。軽やかに立ち上がり、心なしか駆け足でゲンと女将の卓にやってきた。
「もしかして、ゲンさんですか!」
さっと自然にゲンの前に座り、おちょこに酒を注ぐ。
「俺、最近ここに来るようになったんです。みんながゲンさんはい人だ、会ってみろって言うから楽しみにしてて」
ゲンが何も言う前に勢いよく話し出す青年。
「ちょいと、嬉しいのは分かるけどね、名乗りなさいな」
女将が苦笑しながら青年を落ち着かせると、青年は満面の笑顔のまま指で頬を掻いた。
「申し訳ない、俺は武蔵。竹斎先生のところでお世話になってます。ここは仕事で知り合った人に連れてきてもらったんです」
聞けば、竹斎という人のもとで子供の世話をしつつ口入れ屋で仕事をもらって生計を立てているようだ。
「お前さん、動きがいいね。何かしてたの」
ゲンが武蔵に徳利を傾ける。
あー、と武蔵が罰が悪そうに眉を下げておちょこを持ち上げる。
「ガキの頃にやってたんですが、性に合わなくて」
身に付く前に辞めてしまったと気まずそうに肩を竦めた。
「でも、勘はいいわよね。どんな力仕事もすぐ覚えてこなしちゃうもの」
女将がそう褒めると武蔵も照れ笑いを隠さない。
「最近流行ってるし、お前も道場に行けばいいのにって何度も言ってるのによお」
「いやあその話は勘弁してください」
酒精を帯びた男が武蔵の肩に手をかけ、赤ら顔で口をへの字に曲げる。
「まあ、本人が楽しいかは大事だからね」
勿体ないと周りが囃し立てているところを、ゲンがやんわりといなして優しく目を細めた。
そこから話題が移り、他愛もない嫁や仕事の愚痴や笑い話で盛り上がる宴。
惣菜屋から始める煮売り屋ではなく、酒屋の立ち飲みから始まった居酒屋は肴の種類は少なくとも、当たり前だが酒の種類が多かった。
ゲンは京都の中心から外れた、いわゆる下京の華やかな芸子が多い河原町や祇園を避けた。そこから少し西に外れた東本願寺周辺にあるお茶屋遊びの気配が薄れた場所で、酒を飲み、町の連中とわいわいやるのを好んだ。一期一会で出会い、飲むこともあれば、酒屋でしか会わないのに家族よりも悩みを聞く間柄になる時もあった。
「ゲンさん、楽しんでるかい」
ゲンは、うん、と小さく頷く。
世情に左右されない、気楽で、しかし温かい空間が広がっている。
「ゲンさんお迎えだって」
女将が暖簾の向こうに顔を突き出して、外にいる人間に待つよう伝える。外は暗くよく見えないが、店内の明かりがあたった服装を見るとゲンと同業であると分かる。
「もうそんな時間かね」
のんびり残念だなあと立ち上がり、勘定を終えると惜しまれながらゲンはその場を去った。
月が明るく、雲も少ない、夜遊びをするにはちょうどいいある晩であった。
「困ったね」
先日、町で飲んだのもつかの間、都合をつけて飲みに行こうとしていたのに仕事が延びて諦めて帰路についていたその時。
「武蔵だったかな。若いね」
ゲンが呟く目の前に、桶屋の裏手で寝落ちた武蔵が大の字になっていた。頬を赤くし、気持ちよさそうな寝息からは酒のにおいがぷんぷんとし泥酔しているとよく分かった。
人が多い四条通りの裏手だとしても不用心だ。ここのところ東から西からときな臭い連中が京都に集まってきていて治安も悪い。ふんどし一丁になってないあたりから身ぐるみはがされた不幸は起きてないらしい。
「仕方ない」
一度、夜空を仰いだあとゲンは武蔵を起こし肩に担いだ。
ゲンも大きな体躯をしているが、武蔵はそれ以上だ。最近噂の薩摩の西郷とやらも随分と大きいらしいが、同じようなものか。
人通りの多い四条を避けて裏道に入り、西へ進む。このまま真っすぐに進めば桂川を渡り、松尾大社という酒の神様を祀る神社に行きつくが、桂川を越すよりも随分手前で、ちょうど壬生寺のあたりで左に曲がる。最近、江戸からやってきたという出自もよくわからない浪士たちが居着いている噂は本当で、ちらほら境内にいる男たちがゲン達をじっと睨んでいた。
夜も更けて長いにも関わらず、人の影が分かる程度に火が灯り、男達の低い話し声が重く、肩が凝るよう。
「おい、何してる」
気が立った仲間を諫めてきたまとめ役が近づいてくる。表情を察するに、部下の鬱憤を抜くべく動いたらしい。
「この子がね、酔いつぶれちゃって。送り届けるところだよ」
男がひょいっと武蔵をのぞき込み鼻をひくつかせると合点がいったと苦笑した。
「引き留めて悪かった」
ゲンは手をひらひらさせてご苦労さん、と労い武蔵を担ぎ直しその場を後にする。
道なりに歩けば、松尾御旅所と看板のある建物に着く。その脇に人が住んでいそうな家があった。
ゲンは一瞬迷ったあと控えめに戸を叩いた。
しばらくすると奥から衣擦れの音が聞こえ、どちら様ですか、と子どもの声がした。
「ゲンというもんですが、武蔵を届けにきました」
逡巡の気配が漂い足音が去ると、大人であろう足音がした。
迷いなく戸が開く。
「や、申し訳ない」
出てきた少壮の男は、竹斎と名乗り深々と頭を下げた。
「たまたま見つけてね、飲んだよしみもあるから」
武蔵を引き渡していると、わらわらと子どもたちが竹斎の背後に集まり始める。
竹斎が受け取った武蔵を年長の子どもに預け、子どもたちが武蔵を引きずりながら奥に下がるのを見届けると、再度深々と頭を下げた。
「有難うございます。この子は本当にいい子なんですが、危機感がないというか、ここは京都ですと伝えても分かっているようないないようなで」
「運がいいんですな」
「本当に。さ、さ、中に入ってください。大した構いもできないですが、お礼をさせてください」
竹斎は始終恐縮して腰が低いが、落ち着きを欠いた様子もなく人好きのするハの字の眉が特徴的だ。
「いや、どうってことないので。気持ちだけ受け取っておきます」
残念そうに引き留める竹斎をやり過ごし、ゲンは子どもが沢山いる家を去った。
「また! お会いしましょう!」
去る背中に竹斎の再会を願う言葉が投げかけられた。
ゲンは先ほどと同じように手をあげひらひらさせて応えた。
下弦を過ぎ、細く弓なりになった月がゲンの背中を照らしていた。
空気を鋭く裂く音が拝殿に鳴る。
何かが倒れ叩きつけられ、更に鈍い音で蹴られたと分かる。
「立て」
拝殿内にあるふたつの篝火に、ふたつの人物が暗闇におどろおどろしく揺れた。広々した板間に暗鬱とした空気が密閉され、喉を塞ぐ。怒気は無い。憤りも、殺気も、忿懣もない。ただ波が静かに荒み、肌を逆撫でる。
蹲っていた小さいな体が時間をかけて立ち上げると、今度は錫杖で腹をど突かれそのまま天に持ち上げれる。
「遅い」
呻き声と共にギぇェと、と胃液を吐くが錫杖を必死に掴み、これ以上抉られないよう握り込むが、
「がっ、グッ」
虚しく錫杖に串刺しにされたまま再度抉られ、今度は血反吐をぶちまける。
「弱い、弱い。それでどうやって弟を守る。希巳よ」
ぼたぼたぼたと床に汚い液体が溜まる。
錫杖が大きく振られ、つられて串刺しにされたままの体が吹っ飛び、本殿に続く廊下に投げ捨てられ、腹を抑えることもできないキミに錫杖を引きずりながら詰寄る影がある。
炎の灯りが爪先を赤く染め、徐々に暗闇から頭が現れる。
「立て」
ゲンの姿がそこにあった。
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