アドラー心理学⓫非を認めることは負けではない

【権力争いから復讐へ】

例えば政治について議論を交わしていた時、両者一歩も譲らず、議論は政治の話を超えてお互いの人格構成にまで及んできていまう。

「だからお前は馬鹿なのだ。お前のような奴がいるからこの国は変わらないのだ!」などと。

もはやこれは政治とは関係のない話になっています。この場合の相手の目的は、議論をしたいのではなく、権力争いに勝ちあなたを屈服させたいという思いに、自分でも気づいていないうちにすり替わっています。

もしここであなたがその権力争いに乗って、相手を言い負かしたとする。でも権力争いはそこで終わらなず、次の段階に突入します。それが

復讐の段階

言い負かされた相手は何かしら別の手段を考えて報復しようとするでしょう。この悪の連鎖を止めるための考え方が

非を認めることは負けではない

という考え。アクションに対してリアクションを返さない。権力争いだと察知したら、いち早くそこから降りましょう。我々にできるのはそれだけです。
もしあなたが今、悔しくて反論したい気持ちを我慢するのか・・・と考えていたらそれは、はあなたが権力争いにとらわれているという証拠です。怒りをコントロールするというのは我慢をするということ。それではいつか爆発してしまいます。大事なのは

怒りという手段を使わないでいい方法を考える。

怒りとは所詮、目的をかなえる道具なのだから。
前に話したウェイターにコーヒーをこぼされてカッとなって怒鳴ってしまった例のことですね。怒りっぽい人は怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることをしらない。だからこそ、ついカッとなったなどという言葉が出てきたり、怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。

(周りにも結構こういう人居ますよね)そんな時は思い出してください。

我々には言葉がある。

いくら自分が正しいと思えたとしても、「相手を非難しない」ようにする。

人は対人関係の中で自分が正しいと思った瞬間、すでに権力争いの中に足を踏み入れている。「自分は正しい。すなわち相手は間違っている。」そう思った時点で主張の論点は対人関係の在り方に移ってしまう。

「私は正しい」という考えが「この人は間違っている」という思い込みにつながり

最終的に、だから私は勝たねばならぬ。と勝ち負けを争ってしまう。

主張の正しさは勝ち負けとは関係ない。

あなたが正しいと思うのなら、相手がどう思おうが関係ない。そこで完結する話だ。

しかし、多くの人は権力争いに突入し他者を屈服させようとする。だから自分の誤りを認めることを自分の負けを認めることだと考えてしまう。でも謝罪を述べること、権力争いから降りることは負けとは関係ない。

優越性の追求とは他者との競争によって行うものではない。

勝ち負けにこだわっていると正しい選択ができなくなる。

メガネが曇って目先の勝ち負けしか目なくなり道を誤る

競争の勝ち負けの眼鏡を取ってこそ自分を変えていくことができる。


この章は中々ぐっとくる章だと思いました。確かに議論をしていると段々人を負かそうという方向になって暴言を吐いたりしだすことありますね。それは非を認めることが負けになるという考えから来ているのですね。なかなかこれをされて気にしないというのは難しい話ではありますが、それによって正しい選択ができなくなるリスクをとることになってしまうので、冷静に主張の正しさと勝ち負けは関係ないと割り切らないといけませんね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?