アドラー心理学⑨私達は主観的な事実の住人
【劣等感は主観的な思い込み】
劣等感とは自らの価値判断にかかわる言葉。
例えば、アドラーは背が低いことにコンプレックスがあった。あと背が10センチ高ければ何か変わるのではないか。もっと楽しい人生が待っているのではないかと思っていた。それを友達に相談したところ、友人は言った。
「大きくなってどうする、お前には人を寛がせる才能があるだろ」
なるほど。大柄で屈強な男性はそれだけで相手を威圧してしまうところがある。小柄な私だからこそ相手も警戒心を解いてくれるとアドラーは考え直した。それはカウンセラーにとって大事な素質になる。つまりは、
価値の転換
である。身長が低いということは劣等性ではなかった。事実として何かが欠けていたり劣っていたりということではなかった
確かに155センチという身長は平均より低い。という「客観的」に測定された数字である。一見すると劣等生に思える。だが問題は、その身長に
どのような価値を与えるか、意味づけをするか
とうことだ。
自分に感じていたのは他者との比較であり、対人関係の中から生まれた主観的な劣等感だった。
比べる他者がいなければ自分の身長が低いなんて思いもしなかった。
あなたが抱えている様々な劣等感は「主観的」な劣等感ではなく「客観的」な劣等感である。
我々を苦しめる劣等感は客観的な事実ではなく「主観的な解釈」である。
主観にはいいところがある。それは、「自分の手で選択可能」だということ。
長所とみるのか短所とみるのか、いずれも自分の手にゆだねられているからあなたはどちらを選ぶこともできる。
客観的な事実を動かすことはできないが主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。
私達は主観的な事実の住人である。
わかりやすい例だと、ダイヤモンドは見方を変えればただの石ころに過ぎない。価値とは社会的な文脈の上で成立しているだけのもの。一ドル札は一つのコモンセンス(常識)であり、共通認識ではあっても客観としての価値ではない。紙幣自体に1ドル分の価値はない。この世界に私以外誰もいなければ冬の暖炉にくべてしまうでしょう。
物事の悪い側面ばかりみて嘆くか、いい側面をみてポジティブに考えるかは自分の「主観」しだいであって、それは自分で選択してネガティブでもポジティブに変化できるものであるということですね!
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