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セルフレビュー「私を愛するということ、世界を愛するということ、誰かを愛するということ」

下記の論考に対する自己批判です。

2024/5/8

独我論の懐疑と社会性

 自己の同一性と世界が同じこの世界であることの同一性はコインの表と裏のような関係にあり、それらは岩井克人が現存在について述べたように、循環論法のうちにある。世界がこの世界であることは、私がこの私であることに基礎づけられ、私がこの私であることは、世界がこの世界であることに基礎づけられる。
 ……独我論の懐疑によって、すべての情報(関係)を懐疑することは、私もしくは世界のどちらかを失い、両方を失うことに等しい。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n128bde4030e0

 ここから、すべての情報を懐疑する独我論の懐疑は社会的なコミュニケーションのレベルに持ち込むことができないという帰結が導かれる。

 その懐疑は他者の存在を懐疑するが故に矛盾なしにその前提(世界はすべて夢ではないか?)から他者とコミュニケーションを行うことができない。独我論者は正しくその論理に従うのであれば、この私(世界)を手放すが故に、この世界(私)を手放さなければならない。

 それは我を捨てるということに繋がりうる点で(それにより自身と世界の境界を捨て去り、逆説的に世界と合一するだろう)、個人が抱くことに意義のないものではない。しかし、それを論駁できないことを持ってこの世界のルールを踏み倒してもよい根拠にはならない。それを持ってこの世界の真実を歪めることはできない。

 独我論は個人がひとりその懐疑を抱いている状態を何者にも論駁することはできない。しかし、それを社会性のレベルに持ち込むこともできないのである。

相対主義者の真理と社会性

 そのように見られた世界と私は紛れもなく単独的である。関係の総体はそれぞれの世界内存在者にとって異なり固有であり、それをたとえば他者のものと入れ替えることはできないからである。それはその丸ごとを他者に伝えることができない。それは伝えるということ(一つの関係の末端から他の末端に伝達すること)に反する。故にそれは言語の外部である。それはただ私と世界がそうあるということだから。それはイデア(抽象)の世界に反する。何ものをも捨象せず、すべての関係を考慮するから。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n128bde4030e0

 独我論の懐疑について言えることは、プラトンやアリストテレスがイデアや実体によって論駁しようとした相対主義者の真実にも言えるかもしれない。

 相対主義者の真実、真実は人それぞれと言うとき、それはある意味で正しいことを述べている。

 ある人にとっての世界、その関係の総体は他の人とは異なり、そのまるごとの世界すべてを人は共有できない。それはその人にとっての世界そのものであるという点で一つの真理でありながら、各人によってそれぞれ相違する。

 その単独の世界はその総体を、他者と共同で創造する言語の世界に持ち込むことはできない。関係の総体(単独性)と言語は互いに影響を及ぼし合いながら、しかし、それらは互いに互いを完全に内包することはなく、互いに対して外部性を有している。

 言語は一つの関係の体系であり、人の関係の総体の一部である。それは人の関係の仕方をある程度は定めるだろう。しかし、言語は決して人の持つ関係の全てではない。

 もしも言語が関係の全てであれば、それは神の言語である。なぜならそうであれば、言葉がこの世界を創造し、言葉がこの世界であり、語り得ぬものは文字通り存在しないということなのだから。あるいは、言語はたとえば、熱湯につけられた手の熱に対する反応を制御することはできない。その関係は言語にとっての外部である。

 あるいは、単独性は言語によってそのすべてを他者に伝達することができない。私達は完全に他者に成り代わることはできないし、誰かを自分にすることはできない。単独性は言語の限界を超える。

 相対主義者の真実(関係の総体、各人にとっての世界が人それぞれで異なるということ)はそのすべてを言語によって語られる真理のうちに持ち込めない。逆にまた、言語によって語られる真理も、ある一者の単独性のすべて(関係の総体のすべて)を含むことはない。

 相対主義者の真実は、それのみで生きるのであれば、言語による他者との関係、社会性を放棄しなければならない。相対主義者の真実は言語によって語られる社会的なルールや真実を踏み倒していい根拠にはなり得ない。

2024/6/23

関係論の皮相さ

 そして、「関係する」ということを認識論上定義すると比較尺度を二つ以上並べて対象を測定する時に、一方の選択が他方の選択を引き起こすことであるといえる。これは因果的な繋がりも相関的なつながりも順序があるものもないものも両方を含む。ここで述べているのはその性質を何も指定しない、最も基本的な「関係一般」の定義だから。

 さらに、因果や相関等を含み、認識上と物理世界の両方で通用する最も基本的な「関係する」ということの定義とは「選択が選択を生む」ということであり、「関係」とはその「選択が選択を生むということやその仕方」をそう呼んでいるのだと表現できる。つまり、「関係」とは「選択の連なり」なのである。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/ne9d343853f7b

 自己の同一性と世界が同じこの世界であることの同一性はコインの表と裏のような関係にあり、それらは岩井克人が現存在について述べたように、循環論法のうちにある。世界がこの世界であることは、私がこの私であることに基礎づけられ、私がこの私であることは、世界がこの世界であることに基礎づけられる。私がこの私であったから、世界はこの世界であるのであり、世界がこの世界であったから、私はこの私であるのだと。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n128bde4030e0

 私の関係論は皮相なものに見えることは否めない。ただ、それを一概に否定できない理由もある。まず、これが関係一般の定義であるために、物理的な関係も概念間の関係も両方を含むものであるがゆえに、抽象的なものにならざるを得ない。

 また、この関係の定義は意味のある関係も意味のない関係も両方を含んだ定義である。関係は知識であるということは、ある任意の二者以上の関係に名を与え続けることが知の営みの一つであることを示す。その中で他のものと数多くの関係を持つものは中心化されるなどして、重要な意味を持つだろう。

 しかし、そのような営みにおいて、人間は操作によって意味のない知識を大量に生み出すことができる。2点以上の項を比較しさえすれば、関係は生まれる、たとえそれが無関係という関係であっても。私の議論はそのような意味のないものも含んでいるから、皮相に見えてしまう。

 では、そのようにして名付けられた関係が意味のあるものかどうかは、どのように決まるだろうか。それは他のものとの関係によるほかない。意味とは関係が作り出すものだから。関係に意味があるかどうかはその関係の他との関係に依存する。関係の意味は関係に依存し続ける。

 そして、その依存の構造、関係の意味の根源は、私がこの私であることと、世界がこの世界であることの循環にある。それがある一者にとっての関係の全てであるから。この循環は根拠と意味というものの根源的な構造である。

 ただし、この根拠の構造は未知を考慮に入れていないことは注意しておかなければならない。これが示すのは、私の考えうる根拠と意味が私の関係(情報)の総体に制限されてしまうという、限界を示すものでもある。人は物理的に知らない情報を論証の根拠にすることはできないし、関係のないものの意味はわからない。私の関係の総体は、私にとっての世界ではあるが、それは世界にある関係の全てではない。世界と私の間に新たな関係が生まれれば、その循環は変質する。

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