書いたものは全て消したかった

僕がこのnoteを使用し始めたのは大学3年頃からです。僕は自分が作ったものを見返すという習慣がないので文章を読めば恐らく自分がどのような心情でそれを書いたのか確かめるということをしません。その時見えていた世界をそのまんま文章にしているので「井の中の蛙感」を自分自身で受け止められないんです。

僕は絵も描きますが、基本的な創作スタイルは文章にも絵にも共通していて何を創ろうかという意識を脳から排除してその時、その瞬間に生まれたものを大事にします。調子がいい時はペンに書かされているような感覚になります。そうしてないと作っている途中に作為的な自分に恥ずかしくなって全部投げ出してしまいたくなります。

こういう創作スタイルだからこそ、その文章に濃密な「いま」が凝縮され、ある種の呪いのようなエネルギーを感じます。説明が難しいですが「今日サンドウィッチを食べました」的な文章ではなく、「今日サンドウィッチを残しました」的な文章なんです。前者には何も感じないですが、後者は「うぉえぇ」って吐きそうになります。サンドウィッチを食べた瞬間の空腹感やサンドウィッチの質量、トマトのジュクジュクした感じ、その時の事を全部思い出すんです。

こういった作り方にここ半年くらいで変化がおきました。質量のない無機質な文章が書きたい時期がどうやら来たようです。「今日サンドウィッチを残しました」より「今日サンドウィッチを食べました」の方が今の自分にはしっくりきます。「海」や「空」より「コンクリート」の方が好きになっています。

人間は内省的な自分と外交的な自分を少なからず両方持ち合わせて生きていると思います。大学の4年間は独りでいることが多く内省的な自分の割合がとても高かったように思えます。そのため当時の文章の役割はどちらかというと日記に近いものでした。

大学を卒業して少しだけ社会に出て、人に伝えることの幸せのようなものを23歳にしてやっと感じることができるようになりました。伝えることから逃げて逃げて逃げすぎた結果、だいぶ遠回りしてここに来ました。今までいた井戸からすこしだけ広い世界にお引越ししました。やっと人に届ける作品を作る意欲が出てきたんです。2022年は激動の一年だったな。内省的で恥ずかしがり屋な自分の意識が外に向くと限りなく意味のないコンクリートを目指すんだ、という面白い発見。

毎日、毎日SNSをやめたい気分でした。以前に自分がいた井戸から発信されたものが連続して並んでいるSNSが怖かった。そうなる事を分かって投稿し続ける自分は気が狂っていると思っていました。でも今はなんとなくあれもこれも全部僕〜って鼻歌が歌えるようになりました。自分の文章を遡って笑えるようになりました。自分が辿ってきたストーリーが面白いしそれを分かってもらいたいなと思うようになれました。だから、前よりも少しだけ臆病な表現からはみ出せるんじゃないかなと思います。いつか外交的なコンクリートと内省的な呪物を統合した作品を作りたいです。まだまだ先が長い。

僕の文章への向き合い方と表現方法の変化、それに伴う世界との関わり方の決意でした。

あー恥ずかしい

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