リアル・ソーシャルなネットワークの錯綜

#独り言日記シリーズ

この業界にいると、何事もオンライン。アポイントも、学習も、交流も。コロナの影響もあって、最近は仕事で新しい人と対面することがほとんどない。

オンライン化は素晴らしいことであるというのは、効率の観点から言えば賛成である。一方で、なぜかリアルなコミュニティ・コミュニケーションがなくなることに物寂しさを感じる。というより、オンラインのネットワークに対して抵抗感がある。

人的ネットワーク(人間関係)とは、人と人の間の評価アルゴリズムである。アクセス可能な時空が拡がった今、人が人を評価するには、関わる人が多すぎる。どんな人でも、積み上げて来たものは把握するだけでも膨大であり、しかも時間的に長く理解しなければ、筋の通った人格は見えない。だからこそ人が人を敬い、それを示すことは、理解すべき人格の優先順位を付ける際に、あるいはその敬意を自分の理解に代用できるという点で、価値がある。

価値の源泉は有限である。石油も、無限に算出するなら価値がない。逆も然りで、人が便宜的に価値を求めるとき、そこには有限性という前提を課す。一人が他人に払える敬意の総量には暗黙的に上限が課され、もし上限を超えて敬意を払いすぎてしまった場合、薄っぺらい・嘘つき・八方美人といったレッテル攻撃の目に遭ってしまうかもしれない。敬意の上限量は、幼少期から、クラスという小さなネットワークでの自律的な作用によって上方硬直的に規定・調整され、今に至るまで長くその状態を維持している。

このように、現実のネットワークは、社会的に共有された敬意の有限性によって、重く有機的な性質を保っている。過度な褒め立ては発言者の権威を枯渇させ、胡散臭い人、信用できない人といったレッテルを反映する。これらの性質に、私は煌めきと儚さを感じる。

リアルネットワークのオンライン・リプレイス(ソーシャル・ネットワーク)では、有限が無限に開いてしまう。フォロー・フォロワー数という枯渇しない数字 ー 無限の他薦が、人格理解の優先順位づけを曖昧にし、個の評価が表面的になる。軋轢は、軽く無機質なネットワークの中では、コミュニティの断裂にしか繋がらない。こうして、時間の経過とともに、閉じたネットワークの中で、軽く表面的な個の評価が宗教的な勢いを持ってコミュニティを分裂させ、人間関係を現実から切り離す。現実世界の人間関係が介入しづらいコロナの流れは、よりこの傾向を後押しする。これが日々感じる物寂しさの正体ではないか。

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