虚無を考える

#独り言シリーズ

少年漫画、少女漫画の類を読むと、虚無を感じる。恋愛ものは分かりやすいが、日常を描く作品にまで虚しさはついてくる。この虚しさを見つめ直した時、正確には憧憬であるなと気づく。虚しさ(心が上の空になる)と、憧れ(無くなってしまったものを恋しく思う)の2つの感覚。

憧れの対象、つまり無くなってしまったものが何かというと、神秘ではないかと思う。ここで言う神秘は、「理解できないもの」である。

子どもは、きわめて狭い世界の中で、無根拠な全能感を振りまく。漫画でも、「一生一緒」とか、「絶対勝つ」とか、それを本気で思っていることを感じる。し、私も昔は本気で思っていた。

しかし、いくら子どもでも、本気で自分が全能であると経験的に確信しているわけではない。あるいは、根拠なしに盲信しているわけでもない(空を飛べるとは言わない)。その前提に、「理解できないもの」の存在を黙認しているからこそ、論理的に全能感を感じられているのではないか。

実際は破局不倫がありうること、勝てない闇の力があること、子どもはそれらの存在を「複雑で、理解の及ばないもの/大人になるにつれ理解するもの」として、ブラックボックスに閉じ込める。それがいつの間にか逆転し、思考に先立つものとして「理解できないもの」たるブラックボックスが存在するようになる。これが先に話した神秘である。

この神秘は、日常に異質な形で現れる。例えば、野球をしていて他人の家の窓ガラスを割った時。あるいは、私の場合は、近所の工場の機材を壊してしまった時。そういった場合を思い出すと、事実や時系列というより、感情や霞がかった情景が浮かぶ。これは、子どもにとって自分の理解の及ばない責任範囲の話も、極端には神様の存在的な話も、見分けがつかずひとえに「ブラックボックス」であり、ブラックボックスの外たる日常に、突然ぬるっと顔を出すブラックボックスは、感情や情景が支配され記憶に刻まれるほどに、怖く、同時に神々しく、ワクワクを伴うものであるからではないだろうか。おやすみプンプンに出てくるアレは、まさしく神秘であり、神であり、恐怖であり、異質である「コレ」の具現化なのではないかとも思う。

成長して世界が広がると、現代では万物を機械的に理解してしまう。より複雑なことを理解することが頭脳的な成長であり、複雑をブラックボックスに押し込んだからこそ生まれる純粋さはもうどこにもない。気づけば、世の難しさを知り、知らないこと(知ることができないこと)がなくなり、全能も無能へと変化する。これは単方向的な変化であり、もはや大人は神秘的異質を感じられない。だからこそ、少年漫画を読んだときに、かつて自分にもあったはずの純情と全能へ焦燥して、虚無を感じるのではないか。

一方通行の人生で、もう一度全能感を取り戻そうと言う反抗が結婚であり、芸術であり、移住なのかもしれない。

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