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岡真理『アラブ、祈りとしての文学』

いつか明るい展望が開かれるのだと信じ、戦いに身を捧げる人たちがいる。そう信じることなしには生きていくことができない人たちがこの世界には大勢いる。日本に住み、のうのうと暮らしている私には想像もできないような恐怖に日々身をさらし、戦うことでいつか報われるのだと信じる人たちが。戦うことに根拠などない。なぜならそれは"あらかじめ否定されていること”だから。彼らが戦いに身を投じるのは根拠のためではなく、そうせざるを得ない"状況"のためなのだ。それならば彼らにできることは、私たちに残されたことはーー祈りくらいなものだろう。

本書は、アラブ文学者である著者が、アラブの世界を文学の観点から見渡し、小説を書くということ、小説を読むということの意味を問い直した、いわば論考文である。岡真理の文章は終始切れ味が鋭く、言葉の持つ力をひしひしと感じた。これほど凛とした文章で思いを言語化することができるのか。本に宿る祈りが、そのまま結晶化したような、そのようなたたずまいの本だった。

文学に何ができるのか。
この本の根本にあるテーマはこれである。文学は不条理な状況下において、人間が人間であることを自覚するために存在しているのかもしれない。玄関に飾った花のように。客人をもてなす茶菓子のように。人として生きるよすが。それが文学の役割なのかもしれない。
だが、もし文学がそのような人間性を保つためにあるものなのだとしたら、アフリカで飢えに苦しむ人たち、ウクライナで空爆に怯える人たち、ガザで銃声を聞きながら生き延びようとする人たちにこそ・・・・・・、本来文学は必要なのだと言えないだろうか。
そうでなければ、文学とは飢える心配が無く、安寧な暮らしを手に入れた者のみが"特権"として享受できる贅沢に過ぎないことになってしまわないか。

傍から見れば、戦争に身を投じるという行為は、現実をより良い方向に変える力などない愚かしい行為だ。少なくともプーチンがウクライナに仕掛けた蛮行も、ガザでいま起こっている紛争も、私にはそう見える。だが、そこで生きる人々の中には、おそらく、その戦争という行為に希望を託さざる得ない人もいるのだろう。そうすることで自分たちの尊厳を保とうとすること。状況に追い詰められ、戦争という行為によって逆説的に人であり続けようとしている人たち。そんな彼らにとって文学が何をしてくれるのか。

文学は祈りだ。そして文学は祈りでしかない
では、祈りとははたして何なのだろうか。

東ベイルート郊外のタッル・エル=ザァタル難民キャンプにおける虐殺事件を描いたリヤーナ・バドルの小説『境目』。第二次インティファーダにおけるイスラエル軍侵攻下のガザに生きる難民たちの姿を描いたイブラーヒーム・ナスラッラー『アーミナの縁結び』。四・三事件をテーマとした金石範の『火山島』。
本書はアラブ文学のガイドブック的な側面も持っており、豊潤で奥深いアラブの世界を知ることが出来る。当たり前だが、日本語や英語で書かれたものだけが小説ではない。そんな当然のことを読みながらつくづく感じ、一歩外に足を踏み出し、視界を広げてみることの大切さを実感する。ひとつひとつの作品紹介は丁寧であり、切実だ。それぞれの作品を通して、現状の世界に存在している問題点を見つめていく筆致は、岡真理がどれだけ世界を憂い、どれだけ自身が文学を"信じることが出来るのか"、それを確認しているようにさえ思える。読者は、私たちは、その切実な熱に当てられながら、文学とは何か、祈りとは何なのかを、アラブの文学を通して学んでいく。

文学、そして祈り。今まさに餓死しようとしている者にとってそれがどれほどの意味を持つだろう。彼らを飢えから、死から救うことが出来るのかと問われれば、祈りが無力であるのと同じくらい、小説も無力であるに違いない。誰かが自分のために祈ってくれることは、魂の救済になるのかもしれない。だが、物理的フィジカルの面から見たとき、祈ることはやはり無力に思える。
祈りを込めて書かれた小説が、人生の糧となり、役に立つこともあるだろう。しかし実質的に小説を書くという行為は、読むという営みは、彼ら死と隣り合わせに生きている者たちが体験している生々しい現実とはあまりにもかけ離れた地点にある。「小説を読める」という"贅沢な"行為に身をひたすことすら、彼らには許されていないのだから。

極言すれば、今、すでに起きていることがらに対して祈りそれ自体が無力であるように、小説は無力である。小説は、出来事のあと、つねに遅れてやってきざるをえない無能なものたちだからだ。

『アラブ、祈りとしての文学』(P.300)

「かつて、そこで」起きた出来事を伝える「小説」という存在は、本質的に"手遅れ"なのだと著者は言う。過去に戻ることができないのと同様に、作品が過去の出来事を変えることは決してない。仮に小説の中で、実際に起きた出来事とは違う結末を書いたとしても、なおさら起きてしまったことの「取り返しのつかなさ」を小説は証言するのだと。

では祈ることは無意味なのだろうか。

この問いに本書は「違う」と答える。祈ることは無力であるかもしれないが、無意味とは言えないはずなのだと。いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、私たちにできることがあるとすれば、それはやはり祈ることなのではないか。祈ることで、体験しなかった出来事を想像し、祈ることで自分には起こらなかった世界を知り、祈ることで死者の、叶わなかった生を生きる。その意味で小説とはまさに祈りであり、小説を書き、小説を読むこともまた祈りとなるのだと。

そうなのかもしれない。けれどもし、自分が彼らと同じ境遇にいたとしたら、私は文学をどれだけ信じることができるだろう。誰かに祈られたとしても、あるいは小説に書かれた一節を思い出したとしても、一体それが何になる? それがはたして救いになるのだろうか。わからない。いまのところ日本で平和に暮らし、小説を読んだり映画を観る安寧に身をひたしている私には、彼らの恐怖も絶望も想像することしかできず、確信を持って「祈ることに意味がある」とは言えない。

しかし、想像することそれ自体が意味を持つのなら、文学を通して誰かの痛みを知れたなら、それはつまり、その人を我が身に宿したということにはならないか。手遅れであったはずの彼らの死は、そのとき無意味ではなくなるのではないか。

小説を読むこと。パレスチナでただ無造作に殺される少年に自分と同じ尊厳を「見出す」こと。もはや食べ物が喉を通らないほどに飢え、餓死せんとする子どもの絶望を「知る」こと。いままさに自爆に赴こうとする青年の心を、その母親の気持ちを「追体験」すること。我が身と家族を守るため青年を撃ち殺そうとする者の心を「想像」すること。
そのような痛みに満ちた出来事の記憶を決して埋没させまいとするために、私は、私たちは小説を読む。彼らが生きたことを忘れないために。孤独のうちには逝かせないとその手を握るようにーー。

それが祈りであるならば、文学には意味があるのだと、私にも信じられる。誰かを我が身に宿すことが祈りとなるならば。

小説の不可能性を前提としつつ、それでもなお、彼らが生きた現実を"理解"するために文学はあるのだと、本書は訴えかけてくる。
真摯な本だ。読んだあと、読むことの意味を、そして書くことの意味を意識せざるを得なくなるような力を、この本は持っている。共感の先にある、私たちに出来ることは何かを考えることの大切さ、そしてその覚悟を促すような力が。


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