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『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか』ラッセル・A・ポルドラック

 私たちが何かを選択し、行動をとるとき、脳の中では膨大な処理が行われている。その脳内で起こっている処理ひとつひとつに確認作業をしていたら、日常のあらゆることが困難なものになってしまうだろう。「習慣」はその意味で役立つものではあるが、同時に「悪い習慣」によって悪循環を感じている人も多いはずだ。本書はそんな私たち誰もが持っている「習慣」について、最新の神経科学、心理学の知見をもとに解説している。

 中には、この本に対して「簡単に悪い習慣を直す」といったビジネス書や自己啓発本のようなものを想像している方もいるかもしれない。しかし本書は「なぜ習慣は変えられないのか」ということを解説している本であり、そういったハウツー本の類いが本物の科学の前では意味を成さなくなることを明らかにしていく。それはつまり「変えられる部分と、変えられない部分」があることを意味しており、習慣というものを理解することで、科学的な角度から行動を変える指針を見つけられるだろう。

習慣とは、行動とは

 私たちの行動はすべて「環境」の影響を受けている。環境は、その人の生活に制約や自由を与えることで、欲求や習慣の引き金となる刺激を与えている。つまり行動を変えるための最善策のひとつは「環境を変える」ということだ。
 下図は私たちの決断に関わる影響要因についての概略図である。
 まずは「長期的な目標」。これは将来的に何をしたいか。
 次に「目下の欲求」。これは長期的な目標との整合性を無視した、今すぐに行いたいことだ。
 最後に「習慣」。これは経験によって身につけた行動であり、自動的に行っている。
 あなたの行動を決めているのは、あなたの環境と脳内の活動によるもので、逆にいえばこれらの要因を変えることこそが、行動を変えるきっかけともなるのだ。

脳が習慣を生み出す仕組みとは

 人間の脳は、情報を処理する機能を持った「ニューロン(神経細胞)」と、それを支える「グリア細胞」と呼ばれる多数の細胞で構成されている。ニューロンは一方の端からもう一方の端へと電気信号を送り、隣接するニューロンの電気活動に影響を与えている。そうしてニューロンの本体から「軸索」と呼ばれる構造体を経由して電気信号が端へと伝わり、「神経伝達物質」と呼ばれる化学物質が放出される。この電気信号と化学信号の組み合わせと、どのニューロンをつなげるかを定義する脳の構造が、人間のあらゆる行動の源となる。
 あるニューロンが別のニューロンと通信するとき、興奮性の神経伝達物質が放出されることになり、そのニューロンをつなぐ接合部であるシナプスが、学習や忘却に影響を与えていく。「シナプス可塑性」とは、経験によってシナプスの強度が変化することで、他のニューロンを刺激する力が強くなったり弱くなったりするプロセスのことである。ではその強弱に関係する科学物質とはーーそれが、ドーパミンである。
 この本を読むまでドーパミンは「快楽の化学物質」として、中毒症などの原因となるものという認識だったが、それはドーパミンの説明として正しくない。ドーパミンは、そのシナプス可塑性習慣などの新しい行動を形成するための"ゲート"の役割を果たしており、興奮性または抑制性ニューロンの入力効果を調整している。要するに「動機付け」だ。ここら辺の知見が面白い部分で、マウスを使った実験結果により、「ドーパミンニューロンが敏感なのは厳密には報酬に対してではなく、”予測と異なる状況”に対してである」ことが明らかになる。
 すなわちドーパミンは、生物が報酬をどれだけ"好むか"を決定するのではなく、その生物がある状況下で特定の報酬をどれだけ"欲しがっているか"、そしてその報酬を得るためにどれだけ努力をしようとするかについての信号を発していることになる。これはドーパミンのレベルを適切に調整することで、必要以上の報酬を求めなくなることを意味している。

習慣を変えることは難しい

 一度習慣化した行動は簡単に消すことはできない。例えば日々のルーティンや、癖の中には「悪い習慣」とわかっていながら続けているものがあるだろう。また、誰かがスマホを操作しているだけで自分も使いたくなるなどの外部的な要因も習慣にはある。それらはほぼ自動で行われていることから、よりコントロールすることは難しい。ではパブロフの犬と化した「私」の習慣を変えるには、どうすればいいのか。

 どうやらそこに「意志力」や「自制心」といった働きはあまり関係がないようだ。自制心が強いと思われる人は、衝動を抑えるのが得意なのではなく、そもそも自制心を働かせる必要性を回避することが得意らしく、自動的に健康的な習慣を送っている。それはつまり「意志力」なるものが、期待してるほど大きな働きをしていないことを意味している。

どうすれば変えられるのか

 現代社会にはドーパミン反応を引き起こす様々な要因があふれている。そのため意思の力で習慣を変えるには限界があり、簡単にもとの状態に戻ってしまう場合がほとんどだ。それを踏まえた上で、本書における行動変容の指針とは以下のようなものだ。

1.ルールをつくる
 行動を変容させるための環境設計には、意思決定をするのではなく、ルールを決めるというものがある。実験によると禁煙を試みた喫煙者が成功する割合は、家庭内に自分以外に喫煙者がいない場合は10倍、職場が禁煙である場合は2倍になる。
 また、ルールはシンプルな方がいい。ダイエットの継続率は、複雑なダイエット方法を試した人よりも、単純で行いやすいものの方が挫折しにくいようだ。

2.トリガーの除去
 習慣は何らかのトリガーによって引き起こされる。であるならば、習慣行動を引き起こす手がかりの出現を未然に伏せぐというアプローチも有効だ。その最も有効だと思われる解決策が、住む場所を変えることだ。人生を変えることに成功した人と失敗した人たちの違いは、成功した人たちは失敗した人たちに比べて約3倍も引っ越しをしていたという研究結果がある。転居による環境の変化は行動変容に大きな影響となり得るのだ。

3.変化を想定する
 どれだけ行動を変えようと思っても、それを実行するための計画がなければ意味がない。行動変容させるためには事前に「もし~なら、~する」という想定をしておくことが効果を向上させるという研究結果がある。

たとえば禁煙を成功させるには、「タバコを勧められたら断る」といった漠然としたものではなく、「友人のティナからタバコを勧められたら、禁煙という目標の重要性をあらためて思い起こし、進めてくれたことには感謝するが、まずは1年間1本も吸わないことに挑戦していると伝える」など、想定されるあらゆる誘惑とその対処法を具体的に考えた方が効果的なのである。

P.219

 まとめるとこうだ。

  • 環境を観察することを心がけ、悪い習慣となり得るものへの理解を深める。

  • 習慣のトリガーとなるものをできるだけ排除し、より望ましい生活に近づける。

  • 事前に行動変容についての計画を立て、不慮の事態における指針を決めておく。

行動変容の可能性とこれから

 行動変容が難しい理由は、人間の脳や身体に関するメカニズムの複雑さが原因だ。最新の科学技術を用いることで、記憶を消去したり、嗜好を変化させると言った実験をマウスを用いて行っているが、それが人間にも転用できるようになるにはまだ時間が必要となる。社会倫理の観点から考えても実用化は当分先だろう。

 しかし、人類が進化の過程で身につけた行動原理は、旧石器時代に形作られたものであり、現代社会に置き換えるとバグに近い形で現れてくる。現代病の多くはその齟齬から生まれるもので、スマートフォン等のテクノロジーをはじめ、麻薬や、食製品といったものは、脳の脆弱性につけ込むように開発されている。毎日のようにTwitterを眺めたり、身体に悪いとわかっていてもお酒やタバコを止められないのは、個人が持つ意志力ではどうにもならないほどに、私たちの生活が社会と結びついているからだ。

 はじめにも書いたとおり、根本的な解決策を簡単に提示してくれるような本ではなく、あくまで行動の指針を科学的根拠をもとに示すことがこの本の目的だ。なので結論だけ見ると案外どこかで見聞きした「良き習慣」についてのまとめに感じるかもしれない。とはいえ最新の知見からそれを解説されると説得力があるし、個々の実験結果は読んでいて面白い。専門用語は出てくるが、かみ砕いた言葉を使用しており、「習慣」という誰しも当てはまる身近な話題なのでおすすめ。個人的には脳や意識についての話が好きなのもあって、今年読んだノンフィクションの中ではかなり上位に入る本だった。


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