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マシュー・ルベリー『読めない人が「読む」世界 - 読むことの多様性』

趣味であれ仕事であれ勉強であれ暇つぶしであれ、「文字を読む」ということは多くの人が社会生活を営む上で平然と行っている行為のひとつだ。しかし、果たしてその「読み方」はどれだけ普遍的で、正しいものなのだろうか。いや、そもそも「正しい読み方」なんてものが実際にはありえるのだろうか。
本書では、難読症ディスレクシア過読症ハイパーレクシア失読症アレクシア、共感覚、幻覚、認知症といった読字を阻む六種類のリーダーズ・ブロックが扱われている。文字を読むプロセスがスムーズに機能しているときには気づかれにくい「読むことに困難を抱える人」に光を当てることで、読書という行為の新たな側面を照らし出すことを目的としているのだ。それはつまり、型にはまらない読み方をするときの感覚を現象学的経験として第三者に伝えるということでもあり、作者は苦労も多かっただろうと想像する。読みながら、私が知っている読書という行為は、脳と身体がうまく調和して読み進めることができる人々を対象としたものであって、脳と身体が緊張した状態、あるいは対立した状態のことを指してはいなかったのだと、認識を改めることとなった。

まず、前提としてこの本には、読字の議論に関しては「脳と肉体を分けて考えることはできない」という考え方がある。それは厳密に言えば、文字を読むのに脳は必要ない、少なくとも脳のすべてを使う必要はない無いということでもあるのだ。本書に登場する患者たちの中には脳半球の片側を切除するような手術を受けたあとも文字を読む能力が損なわれなかった者もおり、脳に損傷を受けたからといって、必ずしも読字の習慣が終わりを迎えるわけではないことを意味している。だが、脳に何らかの損傷を受けた場合、それまでと同様の”快適な”読書を楽しめるとは限らない。同時に、それまでとは異なる読書方法が「間違った読書法」であるわけでもない。字を読み、本を読むという行為には人それぞれで異なるやり方があり、人によっては「文字を読む」のとは違う、代替となるアプローチによる識字の方がより”快適な”読書となる場合もある。つまりこの本でうったえていることは「正常な」読み方とみなされているものに対しての認識を変えようということなのだ。

「読む」という行為に支障をきたしたとき、読み方を覚えようと奮闘する人もいれば、読むのを止めようともがく人もいる。あるいは読むことを諦め、次の人生に順応しようとする人もいる。なんにせよ、本書で取り上げられている事例に共通しているのは、「読字に対する言葉にできないレベルでの深遠な感覚」だ。

例えば、ここまで私が書いた文章をあなたはどのように読んだだろうか。行を追いかけ、文章としてとらえ、後戻りすることもなく、一語一語の意味を確認したり、単語を間違えて読んだり、文章やページを逆から読んだり、語順を間違うようなことは無かっただろうか。もしそういった困難を感じることなく読み進めることが出来たのなら、あなたは多くの人と同じ一般的な読み方をしたということだろう。しかしその読み方を”普遍的な”ものだとは思わないでほしい。
後戻り、確認、再確認、誤読、語順の間違い、そういった不具合とされる読み方をしている難読症を抱えた人もおり、それは方法が違っているだけで「間違った読み方」とは言えないのだと、著者はうったえる。

また、読むことに支障が無くても、書かれた文字を理解することが出来ないという場合もある。自閉症者は文字を記号としてではなく形として理解することが多く、意味を表す性質ではなく、文字に備わる感覚的な特質に注目する。たとえばジェシー・パークの場合は、母親と一緒に活字を楽しんでいたものの、単語を理解しなければいけないという圧力がかかった状況では読むのをやめてしまう。ただ単に、プロットよりも句読点を見る方が楽しかったのだ。それはこの症状を持つ者が持つ、文字に対する特質——「テキストの体裁の見過ごされやすい側面を容易に察知できるという能力」に繋がっている。なにしろパークはそのような特質を活かして校正者となったのだ。パークは段落と段落のあいだの余分なスペースや見慣れない句読点に強烈な満足感を覚え、ハイフンを目にして「歓喜に震えた」という。

脳損傷の症例は第二次世界大戦の時代に事欠かなかった。ロシアの兵士レフ・ザシェツキーは戦争のせいで脳に損傷を来し、読むこと、書くこと、話すこと、さらには記憶すること、自分の身体の部位を認識することさえできなくなった。少しずつ回復していったザシェツキーが25年近い歳月をかけて書いた3000頁に及ぶ原稿には、読むことができないことに対する恐ろしさ、屈辱感、困惑が記されており、読むという能力がいかに不思議な力で、活力を与えてくれるものなのかが記されている。

共感覚の章では「文字の味」を感じ取ることができる人の話が語られる。ここでは、文字を読むことで舌先、口蓋、喉の奥に特定の味や触感が誘発される、味覚の共感覚者の実例が取り上げられている。
大学生TDの場合、「chairman チェアマン(議長)」という単語は砂糖漬けのチェリーの味、「suggestibe サジェスティヴ(示唆的な)」はイタリアンドレッシングをかけた・アイスバーグ・レタス味、「attendant アテンダント(従者)」は甘酸っぱいソースをかけたチキンナゲットの味がするという。味覚の共感覚者にとって、本は試食のメニューのようなものらしく、共感覚者の中には単語によって味、食感、温度を舌先の特定の部位で”体験”できる場合もあるというのだ。

こういった症例を解説することで、本書では、「読む」という行為に対する考え方を変えることを目指している。文字を読む行為は単純明快な活動とみなされることが多いが、よく調べてみると、「読む」という言葉には多種多様な活動が含まれており、「読字が一般に認識されているよりも多様な現象である」ことがわかる。そのことを示すために集められた非定形型的な実例には、一般的に知られている読解の仕方を超えて、テキストとの多様なかかわり方にまで拡張された読字のプロセスがあるのだ。だからいま必要とされていることは読字についての新しい定義なのだろう。これまで病的、異常とされてきた、読み方、あるいは「読んだとみなされない」本とのかかわり方について考えることで、私たちの意識もまた拡張できるのではないだろうか。

この本で扱っているのは、単なる「読めない人々の歴史」ではない。他の人々とは異なる方法で文字を読む人々の歴史でもある。逸話、個人の証言、科学的な事例研究といった文献証拠が「定型的な」読者などというものが存在しないことを物語っている。

この本を読み終えたニューロティピカルな読者のみなさんは、「定型的ティピカルな」読者などというものは存在しないことを知っている。この世界に存在するのは、その人特有の、きわめて限定的な方法で文字を読んでいる大勢の読み手なのだ。そう考えると、すべての読み手は非定型的といえる。

『読めない人が「読む」世界』P.331

読みながら、自分自身の読み方についても見直す機会となり、風変りな読み方などなく、自分の読み方を「普通」と考えることこそが、読み方の多様性を損なうことだったことに気づかされた。
読み方もまた多様であって然るべきなのだ、と。

ところで今年になってkindleを使い読書をすることが激増しており、本屋へ行く機会が減りつつある。さらにAudibleを使おうか検討してもいて、こうしてテクノロジーの発達や年齢の変化にともなって、本との付き合い方も徐々に変わっていくんだろうなあと、そんなことを感じている。




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