『宇宙探索編集部』夢追い人との珍道中
やってる劇場の数は少なく、さほど話題にもなっていないので、すぐに公開終了しそうですが、可笑しくて、楽しい、そしてどこか哀愁も感じさせる、愛おしい映画でした。
「中国映画」というと例えば壮大な史劇であったり、カンフー映画を想像する人もいるかもしれません。でもこの映画はそういう活劇要素満載の作品とはぜんぜんジャンルが違うもので、多くの人が歳を取るにつれ忘れ、失っていく「夢」や「真理」を、ひたむきに追い続ける主人公の姿を描いたロードムービーです。全編どこか間の抜けた雰囲気に包まれており、主人公であるタン・ジージュンの真面目で優しそうでかつ物悲しさもある雰囲気から、「上手くいかない人」たちが持つ調子の外れた感じと、一途さ、そしてその愛くるしさを捉えています。
全体のプロットは宇宙人探しを目的に、仲間を引き連れながらタンご一行が珍道中をするというもの。
冒頭、1990年のビデオ映像が流れ若き日のタン青年が映ります。宇宙ブーム真っただ中のこの頃、彼もまた宇宙へ大きな関心と希望を持っており、胸に抱いた宇宙への夢をカメラに向かって語ります。……時は流れ現代、宇宙ブームはとうに過ぎ去り、廃刊寸前の雑誌[宇宙探索]編集長であるタンの顔には老いと疲れが滲んでいました。編集部は資金難に追われており、同編集部の”クサレ縁”チンからはタラタラと文句を言われる毎日。彼らは雑誌存続のためアポロ社を呼び、編集部内に置いてある”宇宙服”をアピールすることでスポンサーを確保しようと画策していました。映画は、そんな彼らの風景をドキュメンタリー風に映しており、そのためか、不動産セールスの電話が変なタイミングでかかってきたり、唐突にタンが目線をこちらに向けて宇宙のことを語りだしたりと、なんだか間の抜けた可笑しな空気感が漂っています。これはモキュメンタリーなのか、それともコメディなのか、はたまたここからSF的な展開を見せるのか。なんだかよくわからないなあと思いつつ話は進み、宇宙服が脱げなくなり、服の中に閉じ込められたタンのことを救出するために救急車が呼ばれ、接合部分を破壊しようと窓から気絶したタンを運び出す場面ではベートーヴェンの「喜びの歌」が流れ、ようやく救出されたタンの姿を映した後に「宇宙探索編集部」というタイトルが表示されます。なんでしょうこの映画、この間の抜けた感。どこかバカバカしいふざけた空気感に満ちていて、「あ、これたぶん私が好きなやつ」と思いながら映画は始まるのでした。
大騒ぎから無事生還したタンでしたが、編集部がピンチなのは相変わらず。しかし彼の胸中には宇宙人を信じる思いが常にありました。そんなおり、中国西部のとある村で宇宙人が目撃されたとの情報が入ります。自宅のテレビが故障したことと、オリオン座ベテルギウスの異常がこの宇宙人目撃情報と関連してるのだと考えたタンは、チンの他、宇宙人の存在を信じる「変わった」人たちと現地へ調査に赴くこととなります。西へ西へと向かう旅は天竺を目指す『西遊記』の悟空一向とも重なり、主人公のポジションを三蔵法師役に置いていることも特徴ですね。旅のお供には文句を言いつつ行動を共にするチン、お酒が好きで気象観測所に勤めるナリス、雑誌[宇宙探索]の大ファンであるシャオシャオがおり、行く先々で少し変わった人たちと出会います。ズラズラ仲間を引き連れたドタバタ珍道中。これわこれわ、私が好きなタイプのコメディ寄りなロードムービーではありませんか。人がどう思おうと関係なく夢と真理を追っていく旅と、スチャラカでちょっと変わった人たちとの出会い。いいねえ、コミカルで楽しいよ。場面場面の美しい情景からはエモーショナルな雰囲気もあり、きっと観ていて穏やかな気持ちになることでしょう。ずーっと文句を言ってるチンの役割は結構重要で、宇宙人の存在を信じ続けるタンに対して、もっと現実を見ろと反対の立ち位置に彼女の存在を置くことで、ただのお気楽な旅行記であると同時に、「現実」に目を向けることが出来ていない主人公のお話でもあることが読み取れます。それはタンにとっての辛い過去も関係しているため、彼のことを思いやる彼女の優しさでもあるわけで、そういうことが映画を観ているとなんとなくわかることから、チンのことを嫌いにはなれません。むしろそう言ってくれる人が側にいてくれて良かったね、という気持ちになりながら私は観ていました。というか彼女はこの風変わりなメンバーな中で「ツッコミ」の役割を持っているので、いてくれないと困る。
頭に鍋をかぶり中国の詩を朗読するスン・イートンが登場してからはさらに可笑しな雰囲気が増していきます。彼が常に頭にかぶっている鍋を調べるとガイガー・カウンターが反応。タンはスン・イートンと供にさらに西へと進んでいくこととなります。道中はおバカなトラブルも多く、うっかりミスでテントが燃え上がったり、何故か森の中で婚礼用の撮影をしている新婚夫婦と撮影隊に遭遇したりと、ここでも調子の外れた人々の姿を嫌味にならずカメラは捉えていき、そういうバカっぽいことや、ちょっと変わった人々への眼差しは、監督の「少し外れた人たち」への愛着みたいなものにも見えて、そんなところがたまらなく私の心をほっこりさせます。中国の山村を旅し、ガイガーカウンターを片手に森の中を散策、みんなで火を囲む光景は、ある意味とっても楽しそうであり、気持ちのいい時間が流れていきました。
手ブレを多用し、カットを小分けにした編集などからは、これが「記録映像」であることを伺わせ、作品はモキュメンタリーに属する作りとなっています。なので特に前半部は「記録」的な意味合いを込めて撮影されており、画面には粗さが残り、登場人物たちはカメラに向かってインタビューのように自身の心を吐露します。ただし、必ずしもその作り方に徹しているわけでもなく、後半になると物語性が強まり、暗転やジャンプカットの繋ぎによってぐんぐん話は進んで行くことに。同時にそれはカメラが彼らタン一行に馴染んできたことを意味しており、ここにおいて、このドキュメンタリーちっくなカメラの役割が何だったのか私たちは気づきます。それは、観客である我々もこの旅の同行者であり、夢を追う仲間だったのだということ。ナリスがいう「宇宙人の存在を確認するために世界中を旅するなんて最高だと思わないか?」というその気持ちを、一緒に体験するためのカメラだったのだということに気づくのです。
終盤は色々あって、タンが一人でスン・イートンを探し、やがて洞窟の奥で神秘と出会うこととなるのですが、ここら辺は観てのお楽しみ。
中国のSF作品と言えば『三体』が流行して以降、日本に輸入されるものも増え、その質の高さには驚かされてばかりでしたし、映像面でも『流転の地球』など潤沢な予算を注ぎ込んだ大作が登場していましたが、こういう「取り残された”平凡”な人々」に焦点をあてた作品があり、こんなにも優しい視点を持つ作り手がいることに何より驚きました。
タンの心の奥には「真理を追求」したいという想いが在り続け、同時にそれは彼の心に拭うことのできない悲しみが在り続けていることも意味します。「なぜ宇宙は存在し、私たち人類が存在しているのか」、彼を突き動かすものは、彼の純粋さであり、痛みでもあるのです。
だからこそ洞窟で見せた彼のあの「笑顔」を私は忘れることが出来ません。きっとこれは、そんな夢を追い続けた人へのエールとしての映画というよりも、彼が抱えている心の痛みと、その癒しの旅を描き、人生に"折り合い"をつける話だったのでしょう。
旅は終わり、再びもといた街に戻ったとき、ようやくタンは大切な人との別れを告げ、堪えていた涙を流します。エンディングは宇宙の果てを、ずっとずっと果てを映し、彼が手紙で語ったとおり、私たちは物語の一部へと、ひとつの"文字"へとなるのでした。
可笑しくて、楽しくて、物悲しい、心の折り合いについての映画。これはそんな愛おしい作品です。あなたも一緒にスチャラカな旅をしてみませんか。
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