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『ルックバック』

本作の特殊性とは何か。というのをぼんやりと考えていたのだが、多分それは原作者である藤本タツキがこれまでのクリエイター人生で味わってきた、「創作するという行為」にまつわるあるゆる感情をダイレクトに反映した物語だという点と、「モノづくりに打ち込む姿」それ自体を祈りとした点にあるのではないかと思う。
藤野と京本がひたむきに漫画を創る姿は藤本タツキが体験した「リアル」であるわけで、創作したものを世に送り出すことイコール「他者に影響を与える行為」という避けがたい事実に向き合った結果の物語なのだろう。

原作が200ページ近くの描きおろし作品であり、「連載」とは異なって、途中に挟まれる「一休み」のタイミングの無い、一気読みさせることを前提とした漫画だったのに対し、本アニメーション映画でも約60分という通常のシネコン作品と比べて短い上映時間に”圧縮”されており、物語の勢いを失うことなく(観客の集中力も高い状態を維持しながら)最後まで駆け抜けていた。

何かに対してひたむきに打ち込むこと。自分より知識も技能も格段に上の存在と出会い、強い敗北感を感じること。燃やし続けた情熱が人生において転機となる瞬間。出会いを通して世界が開かれていく喜び。この作品には漫画家、藤本タツキの人生があり、なおかつ彼女たちが体験するひとつひとつの出来事や感情は普遍的なものでもあって、だからこそ観る人それぞれに深く突き刺さる。

ルックバック。画面に映される後ろ姿には言葉に置き換える必要性を感じない「説得力」があり、原作にはなかった音楽や、微妙な動きが加わることでエモーショナルさは加速度的に増していく。私はこの作品を友人と一緒に観に行ったのだけど、割と最初の方から、なんなら藤野が京本の4コマ漫画に打ちのめされるあたりから既に泣いていた。友人も似たようなものだったらしく、序盤の時点で涙腺に来ていたようで、曰く、「クラスメイトに褒められて調子に乗るシーン」あたりでもうヤバかったらしい。おそらくは、人によってどこのシーンで感情を揺さぶられるかは変わってくるはずで、その射程の広さもこの作品の強さなのだと思う。

あの時こうしていれば、この時こうしなければ。そのように考えることは人生において多くの人が経験することで、そんな風に後悔を抱えながら大抵の人は生きている。そしてフィクションは、創作物は、すでに起こってしまった過去に対して、何らかの救済を、叶わなかった願いを実現することを可能とする。
物語内で藤野は京本の死を知り、友人の部屋の前で「私のせいだ」と自戒する。物語を作ることも、文章を書くことも、絵を描くことも、きっとこのように感想を書くことでさえ、何かを世に送り出すということは「他者に何らかの影響を与える」ということに他ならず、大げさに言えば、いや、大げさではなく、その人の人生を変えるということを意味している。
その結果、もしかしたら誰かの生きる活力となるかもしれない。あるいはそれが引き金となり死を引き寄せてしまうこともあるかもしれない。
その恐怖を、切実さを、悲しみと痛みを、『ルックバック』は引き受ける。創作という行為の危うさを真摯に見極め、イフの世界に思いを馳せることで、「それでもなお作り、伝えることには意味がある」のだと、「あなたの生には意味があった」のだと、そのような祈りとしての物語を顕在化させる。

私はこの映画を観ながら、物語内で起こるささやかな奇跡と似たことがまさにいま現実で起こっている気がした。フィクションを愛してきた時間。何かに打ち込み続けた時間。誰かと出会い、その人と尊い時を過ごした思い出。そのことに意味はあったのだと、映画を通して肯定された気がした。そして、いまどれだけ辛くても、自分には何も無いと感じていても、「ひたむきに進み続けるしかない」という、がむしゃらさとは違う、悲しみを引き受ける行為としての前進を描くことで、あたたかく、力強く観客へと届く。そのような奇跡が。

人生は続く。辛く苦しく悲しく痛みに満ちた道は続いていく。しかし振り返ってみたとき、そこにはあなたが出会った数多くの「他者」という物語があり、それがあなたを形作っている。誰かの物語によってあなたは作られ、あなたの物語もまた誰かのことを形作っている。そのことに私は胸打たれる。涙が流れてしまう。一緒に観た友人と泣いた箇所が違うということと似て、自分とは異なる感覚を持った誰かの物語を受け取ること、あるいは与えるということ、それはとても豊かなことなのだと、彼女の背中は示していた。



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