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シン・エヴァンゲリオンを観て


 ネタバレです。
 あんまりにも感想が漏れ出そうだったので書いたものです。
 作中の出来事、専門用語とは違う情報が存在する可能性が高いです。
 推敲せず思うままに書いたせいで内容がかなりめっちゃくちゃです。
 過度な期待はしないでください。


 日本アニメの歴史に、一区切りがついた。
 25年に渡るエヴァンゲリオンシリーズに、一つの終わりがもたらされたのだ。
 リメイク、リブートと呼べる新劇場版 序が公開されたのが2007年。新型コロナの影響もあり延期され、それから14年の2021年。ついにその終わりは完成した。

 前作、「Q」はシリーズ最高の興行収入でありながら、その内容故に多大な賛否を呼んだ。第二作にあたる「破」に比べ陰鬱であり、主人公・碇シンジが徹底的に打ちのめされ失敗を繋いでいく物語は、ひたすらに重い内容だった。

 本作は「Q 」直後の世界。救助を求めて放浪していたシンジ・アスカ・アヤナミレイ(仮称)は、ニアサードインパクトで生き残った人間たちの村で保護される。そこで再会したのは、かつての同級生であるトウジやケンスケ、そしてヒカリと再会する。
 村はヴィレのサポートにより辛うじて平和に保たれている状況であったが、それでも三人はそれぞれ束の間の平和を生きる。

 アスカは次の戦いに備えて。
 アヤナミは「そっくりさん」と愛称を与えられながら、生きている命の存在を感じて。
 シンジは自分の成した罪により、村の人がここで生きることになったのを後悔しながら。

 このシーンがかなり長い。アヤナミレイに至っては村の農業仕事を手伝うこととなりプラグスーツのまま田植えをしたり汗水流す。
 シンジはふさぎ込んだままだし、アスカは彼を叱咤し続け自分の役目を見失わない。
 だが、この世界の状況において穏やかな日々は、確かな変化を生むための時間だった。
 生まれて初めて、誰にも命令されない世界を踏みしめたアヤナミレイは、クローンとしてではなく一人の人間として学び、『個』を生んでいく。
 その純粋な学びの中で手に入れた他者への干渉・興味が、碇シンジを再び立ち上がらせる最大の助力となった。『Q』において過去の知り合いから(理由あってだが)冷たくされ、理解者となった渚カヲルもまた死んでいった。
 奪われ続け、もはや世界の誰にも望まれていないと感じていたシンジだったが、そんなことはなかった。トウジやケンスケ、ヒカリ、その他の人々。彼に手を指し伸ばしてくれる者は大勢いた。だが、シンジは差し伸ばしてくれる理由に名前を付けることができなかった。
 それに名前を付けたのはアヤナミレイ。純粋無垢な彼女だけが、唯一「みんながシンジを好きだから」ということを伝える。

 僅かながら元気を取り戻したシンジは、次第に村の雰囲気に慣れていく。『なんでも屋』と称して村の安全を管理しているケンスケを手伝い、その過程で葛城ミサトと加持リョウジの息子に出会う。
 ミサトの息子に出会ったこともあり、シンジは自分の痛みだけに目を向けていたことをやめ、徐々に他者の痛みを理解していくこととなる。

その後、アヤナミレイは周囲の言葉を受けて『個体』としての存在理由を欲し、シンジに自分の名前を付けてくれることを望む。
 結局のところ、シンジが与えたのは『綾波レイ』だった。
 ほかに思いつかない――というのが理由だったが、それでも『個』を確立した綾波が手に入れた名前は、まるで輝かしいバッジのようなものだったに違いない。
 だがそれも束の間。クローンである綾波はゼーレでしか生きられないように調整されていた。綾波はシンジに礼を告げ、したかったことを告げ、『個』としてLCL化、消滅してしまう。
 シンジにとっては綾波との二度目の別れだった。だが、立ち直っていたシンジは違っていた。彼は、今度は、真正面から彼女の消滅を見届けた。
 過去の『破』~『Q』における綾波との別離は、自分の知覚範囲外で発生した出来事だった。何の言葉も無い、余韻も無い。ただただ与えられただけの、まるで一場面が流されただけのような別れだった。
 綾波の消滅を見届けたシンジは、迎えに来たヴンダーに乗り込むことを決める。自らが『Q』にて大きくした騒ぎの責任を取るため、最終決戦の場に居合わせる。

 ゼーレとヴィレの最終決戦、ゲンドウの思惑によりアスカは取り込まれ、人類補完計画は進む。ゲンドウと対峙したシンジは、父との対話をするために初号機へと乗り込む――。

 終盤のネタバレについては正直専門用語や特殊なシーンが多くてあまり説明できない。だが、この宇宙とは別の次元へと戦いはもつれ込み、初号機とゲンドウの操る第13号機は、まるで特撮セットのような街で戦いを繰り広げ、戦場はミサトの部屋や綾波の部屋などにまで進む。
 最終的にヴィレクルーが総力を結集して作成し、ミサトが命を捧げて届けた槍によりゲンドウの野望は阻まれる。シンジは父を理解し、ゲンドウは思っている以上に成長していた息子に謝罪し、物語の舞台から降りていく。
 そこに突然現れたカヲルが話を引き継ぎ、物語は進んで、シンジは槍の力でエヴァを必要としない世界を望む。
 舞台から去っていくアスカ・カヲル・レイ。自分をおそらくは犠牲にして成し遂げようとしたシンジだったが、初号機内に残っていた母・ユイが息子を送り出し、シンジも舞台を降りる。
 海の前に座り込んだシンジ。世界が色を抜かれ、線画になり、絵コンテになりかける寸前、彼を迎えに来たのはマリだった。
 目を覚ましたシンジは駅に座っており、体は成長し大人になっていた。反対側のホームには綾波とカヲルらしき人物がおり、後ろからは乳のでかい良い女が抱きしめてくる。
 駅を飛び出した二人が駆け出した世界は、実写の外の世界だった。現実の街が画面全体に広がっていき、エヴァの世界は幕を閉じる。


役目を終えたエヴァンゲリオンという世界

 キャッチコピーに「さらば」とついており、劇中でもシンジが「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」と呟く。
 シン・エヴァンゲリオンはその通り、エヴァを終わらせるための物語だった。
新劇場版シリーズは終盤のゲンドウの言葉や、綾波のシーンから察するに旧劇場版の続編(何があったかはわからない)で、全人類がLCLと化したあとに何かしらが起こり、新劇場版の世界になったと言える。それを示唆するように過去作でカヲルが過去に何人もいたようなシーンがある。

 エヴァは終わった。だがエヴァは再び『新』として繰り返された。その幕引きをするために必要だったのは、存在する人々の役目を終えさせることだった。それは劇中で死亡させたり、物語を完結させることではなく、文字通りのクランクアップだったであろう。
 終盤の戦闘シーンから戦場がまるでセットのようになり、レイを見送る時もエヴァの着ぐるみや天井のライトなど撮影スタジオのような世界が構成されていた。
 大変メタ的な状況ではあるが、この別次元宇宙は人類に認知できる場所ではなく、個人が知覚できるように見えるという。つまりは、我々観客にとってもメタ的にキャラクター=役者が去るためこのスタジオが必要だったのだ。
 役者がいなければ作品は作れない。人間から骨を引っこ抜くように、エヴァに必要だったキャラクターはエヴァという舞台から去っていった。


シンジという監督

 キャラクターを舞台から降ろすという役目を引き受けたのは主人公シンジだった。否、それをやれたのが彼だけだったのだろうと思う。シンジだけが、他のキャラクターとは別の役割や視点を持っていたからだ。
 新劇場版『破』のラストにおいてシンジは神に近い力を手に入れ、ニアサードインパクトを引き起こす。この瞬間、彼はエヴァ世界の既存キャラクターとは別の視点に行ってしまったように思える。もしくは、物語という区分から弾かれたと言えるかもしれない。
 その区分から弾かれ、ストーリーに徹底的に仲間外れにされ、脅威とみなされて静観される立場になったのが『Q』だ。シンジは『Q』において人間・碇シンジとして扱われない、扱いたくても扱えない。ニアサードを引き起こした、神の如き災害の象徴となっている。
 第二作『破』、第三作『Q』を経て、シンジはどんどん人間の外側、物語の外側へ追いやられた。結果、彼はエヴァという世界の縁に立つことになった。エヴァ世界を最も俯瞰して見ることができる役割になったのではないだろうか。

 その役割になったからこそ、彼はエヴァを終わらせる方法を思いついた。25年間必要とされていた父との対話を終え、アスカにかつての想いを告げ、カヲルの真の幸福を願い、レイを送り出す。
 これまでのシリーズで積み重ね、放置していた問題を一挙に片付ける。それは、問題に立ち向かうキャラクターの役目を終わらせるため。
碇シンジという監督は、一人取り残されたスタジオで最後の責任を果たす。


真希波・マリ・イラストリアス

 乳のでかい良い女。本編でそんな風に言っていたのだから仕方がない。
 新劇場版シリーズで最もその存在の賛否を議論され、そしてシン・エヴァにおいても最重要の議論対象となっているに違いないキャラクターである。
 エヴァシリーズの二大ヒロインと言えば、現在でも愛されるレイとアスカ。TV・旧劇場版と続き、彼女二人とシンジの関係を主体に考えていたファンは多いだろう。
 その上で追加キャラであったマリは、今作でシンジを迎えに来るという大役を担い、ラストシーンでは彼と共に現実へと歩み出す。言ってしまえば、マリとのエンディングなのだ。こんな状況だからか、ネタバレ感想ではやはり色々な意味で盛り上がっている。

 さらに騒がれているのはアスカの状況。彼女はケンスケと(パンフインタビューでも言われているが)おそらく恋仲になっており、『大人』になったらしい。シンジとアスカの二人を望んでいたファンからすれば、そんな状況は我慢ならないというのも頷ける。
 レイはシンジを初号機の中で14年待ち続けており、シンジと最後の別れを終えて舞台を降りる。ヒロインになりそうだったアヤナミレイ(仮称)は、既述のように消滅する。
 エヴァ二大ヒロインはそれぞれの役割を終えて、どうしてマリがヒロインみたいにシンジとくっついているんだ、というのが各ファンからの大きな疑問であろう。しかし、マリでなければエヴァは終わらなかったのだとも私は感じる。

 マリは新劇場版『破』からの登場で、ファンにとってはある種『新参者』というキャラだったと思う。作中で活躍する機会は多いが、根底まで覆すような役割はそれほど存在せず、やはりエヴァの物語はシンジ・レイ・アスカやネルフメンバーを主体として動く。
 作中においてもメタ的にも、マリというのはエヴァの世界にあって、最も外側にいたキャラクターだった。有体に言えば、『突然やって来た転校生』である。
 周囲には馴染むものの、クラスがこれまで培ってきた日々を知らない。旧劇場版から続いてきた世界で、あらゆるキャラクターのことを知っているファンでさえも彼女を詳細に評価することはできない。
 そんな作中においてもメタ的においても、一定の距離を常に保ち続けたマリだからこそシンジの仕事から外れた。エヴァのキャラクターがエヴァの世界しか見ることができなくなった状況で、一人クラスの端にいた彼女だけがシンジの最後の役目を見守ることができたのだ。彼女はシンジの仕事を我々に伝えるための橋渡しだった。
 シンジもまた一定の距離を保ち続けた『新参者』のマリだったからこそ、深い感傷を抱くことなく彼女の迎えを素直に望むことができたのかもしれない。

 レイは『破』の特攻シーンなど、好意とは言えシンジの幸福を一方的に願うばかりだった。アスカとは相思相愛になりかけたが、14年の長すぎる歳月は世界と共に距離まで変容させてしまった。二人のヒロインとの関係が対等にならず歪になった中で、マリだけがずっと変わらなかった。否、あらゆるキャラクターがシンジと対等で亡くなっていくのに対し、マリだけはずっと対等だった。
 旧劇場版までを踏まえて、煮詰まっていたキャラ同士の距離。マリはシンジにとって、最も他人らしい他人だったのだと思う。そんな他人だらけのいる普通の世界こそが、ラストにおける我々の現実世界だった。


終わりに


 私はめちゃくちゃに詳しいエヴァファンではない。ほぼ新劇場版シリーズしか見ていないし、関連本はほぼ知らず旧シリーズも知識はあるが見たことはない。ある意味、エヴァにとって他人、距離のあるファンだったかもしれない。
 エヴァの世界は今、終わりを迎えた。メタ的になった作中のセットを越えて、キャラクターたちは舞台を降りて、監督も現実へと帰っていった。
 公開初日の今日、さっそく様々な感想を見ている。面白かったというのもあれば、認められないという意見も数多く、やはり議論を巻き起こすのはエヴァの常なのかと思う。
 やっぱりアスカとケンスケは認められないとか、最後のマリはどうなのとか。私的にはアスカはこれまで散々だったから、明確な幸せを掴めて良かったんじゃないだろうかと思う。
 パンフレットでマリ役・坂本真綾さんも「今回もあくまで、エンディングの可能性のひとつとして考えていただけると、私としても救われます」(公式パンフレット28ページより引用)と語られているので、今回はたまたまマリのエンディングだっただけで、シンジがアスカと生きていくことを望んだ場合もあっただろう。

 多くの議論を見て、私はずっと舞台にいたキャラクター達を想う。25年間、我々の視線を浴び続けたキャラクター。まずは彼らのこれまでの苦労を労いたい。本当に長い間、楽しませてくれてありがとうございました、と。
 願わくば、彼らが再びどこかの舞台に立って我々の前に現れてくれることを望みつつ。最後に、庵野監督へも心よりの感謝と労いを。次はシン・ウルトラマンを大変楽しみにしております。
 長きに渡るエヴァンゲリオンの、一つの終わりに立ち会えたこと。大変光栄な出来事でした。

 他にも思い出せば感想はいくつもでてきそうである。最後のミサトさんはやっぱりミサトさんだった、とか。終盤の海岸のアスカめっちゃエロかった(素)とか。ラストのシンジ君の声は……とか。
 しばらくはシン・エヴァンゲリオンの話題も尽きないだろう。今はしばらく、その話題に身を任せていたいと思う。《終》

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