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奈良時代の夢解き話~宇治拾遺物語より

今日は奈良時代の夢解きのお話。
先日から奈良とか大宰府政庁跡地とか史跡とか物語とか
そして夢解きのこととか、いろいろお話してきた5月でしたが、
今回はまたいろいろ合わさったそんな回です。

まず物語のご紹介、 
鎌倉時代前期ごろできたと言われている説話物語集、
宇治拾遺物語から巻第13-5「夢買ふ人の事

あらすじ

昔、備中国(びつちゆうのくに)に郡司(ぐんじ)ありけり。
それが子に ひきのまき人といふありけり。
若き男にてありける時、夢を見たりければ、あはせさせんとて、
夢解きの女のもとに行きて、夢あはせて後、
物語してゐたる程に、人々あまた声して来なり。

「むかし備中、今の岡山の郡司がいました。
その子にひきのまきひと と言う若者がいました。
彼が夢をみたので、夢をあわさせん(解こう)として、夢
解きの女の元にいきました」 とはじまります。

当時、夢は神仏の啓示、不思議な力があると信じられていました。
「合わせる」というのは夢を「解く」という意味ですが、
「よく合わせる」=「善く解くと吉」となり
「悪く合わせると凶になる」と信じられたそうです。

「善く解く」というのは話す相手によって意味が変わってくるということなのか、何を基準に良い悪いがあるのかは、現代の夢解き人である私には
よくわかりませんが。ただ、そんなに多くはなかったかもしれませんが、ともあれ夢解きが職業として成立していたそうで、その記録も残っています。

さて、物語に戻りますと、この青年「まきひとさん」は、夢合わせて後なので、おそらく終えて、夢解きの女と雑談をしていたのでしょうね。
すると、そこに「人がわちゃわちゃやってくる声がした」と続きます。

国守の御子の太郎君のおはするなりけり。年は十七八ばかりの男にておはしけり。心ばへは知らず、かたちは清げなり。人四五人ばかり具したり。

やってきたのは、歳は17~18歳ほどの国主のご長男、
お共と一緒にやってきたのでした。

そこで、まきひとさんは、奥の方に隠れます。
そして部屋の穴から様子を見ていました。

すると

この君入り給ひて「夢をしかじか見つるなり。いかなるぞ」とて語り聞かす。女聞きて「世にいみじき夢なり。必ず大臣までなり上り給ふべきなり。返す返すめでたく御覧じて候ふ。あなかしこあなかしこ、人に語り給ふな」と申しければ、この君うれしげにて、衣を脱ぎて女に取らせて帰りぬ。

どんな夢だったからは話されていませんが、
この若者が「こんな夢をみた、どんな意味だ」と問うと、
夢解きの女は「それは優れた夢です。必ず大臣にまでなるでしょう。
返す返す素晴らしい夢ですから決して決して人にはお話なさいますな」

とこたえたので、御君は嬉しそうに衣を脱いで、夢解きの女に与えて帰っていきました。

わたくしとしては、まきひとさんのものも併せて、夢の内容の方が気になって仕方がないのですが。ともあれ、この物語のポイントはそこではないので、つづけます。

彼らが帰ると、奥で覗いていた まきひとさんが出てきました。
そしてこういいます。

「夢は取るといふ事のあるなり。この君の御夢、我らに取らせ給へ。」
つまり「夢は取る、ということがあるから、今の若君の夢を私にくれ」
ということです。

そして、この若君は国守の子だったのですが、国守という役職は4年を過ぎると都に帰るのだそうです。まきひとさんはそれを持ちだして言います。
「でも、自分はこの国の者だから、いつまでも長くここにいるだろうし、
郡司の子なので、私こそ大事にしたほうがいい」と。

すると夢解きの女は「そうしましょう」と承諾します。
そこで、「では、こうしなさい」と教えます。

「さらば、おはしつる君のごとくにして入り給ひて、その語られつる夢を
露も違はず語り給へ」といへば、まき人悦びて、かの君のありつるやうに入り来て、夢語りをしたれば、女同じやうにいふ。
まき人うれしく思ひて、衣を脱ぎて取らせて去りぬ。

「先の若者がしたのと同じように部屋に入って、露も違わず同じように夢を語りなさい」というので、まき人さんは、そっくりそのまま真似をして、自分の夢のように話し、先の若者のように夢解きの女に褒めてもらい、同じように衣を脱いで与えて去った、というのです。

そして

その後、文を習ひよみたれば、ただ通りに通りて、才ある人になりぬ。書物をならい読むとすぐ上達してその才をのばして、その名も通り、帝がそれを知り、唐(もろこし)へ、「物よくよく習へ」と遣はして、久しく唐にありて、さまざまの事ども習ひ伝へて帰りたりければ、御門かしこき者に思し召して、次第になしあげ給ひて、大臣までになされにけり。

唐に渡ったくさんのことを学んで持ち帰った、つまりきっと遣唐使です。
そして、大臣にまでなったと記されており、これは夢解きの通りの結果です。そして最後には、こう締めくくられています。

されば、夢取る事は げにかしこき事なり。
かの夢取られたりし備中守の子は、司(つかさ)もなき者にてやみにけり。夢を取られざらましかば、大臣までもなりなまし。
されば、夢を人に聞かすまじきなりと言ひ伝へける。

現代語でいうなら「だから、夢を取ることは、誠に恐ろしいことです。あの夢を取られてしまった備中守の子は、職もないままやんで死んでしまった。夢を取られなかったなら、きっと大臣にまでもなったであろうに。だから、夢を人には聞かせてはならないものだと、言い伝えているのである。
と言うお話です。

現代の夢解き人としては…

現実的に誰かの夢を取って、というようなことは、なかなかないと思いますが、誰かに夢の話をすることで、その夢の吉凶とまではいかずとも、いい印象のものになったり、そうでなくなるものは出てくるかもしれないとは思います。

また、違う面から考えると、聞く人が聞けば、夢の深い所の意味や本音が解るので、簡単にしゃべると、夢主は勿論、聞く側もそれに気づいてしまうと気を遣うこともあるかもしれないとも思います。そう言う意味では「人に聞かせるな」は、今にも共通すると思います。

ただ、何よりこの時代のことですから、一番心配なのは、誰かに夢を聞かれて、例えば「謀反を企てている夢である」などと付けこまれ、政治的に陥れられるとか、あらぬトラブルに巻き込まれるようなことも起こりやすかったので、注意を促していたのかもしれない…と思ったりします。これは、勝手なわたくしの推測ですが。

それはさておき、このお話に関しては、それよりもなによりも、いくら物語とはいえ、「この夢解きの女はよくないねえ」というのがわたしの第一の感想です。

「これは絶対したらだめでしょ、守秘義務も何もないのね、まあそもそもセッションの様子を他者にのぞかせているし」と、突っ込みどころ満載です。

「夢解きに来ていることも誰にも見られたくない、見られてはいけないとか、そんな決まり事があり、隠れたまき人さんだったのだろうか?」
「百歩譲って、先客いるのに人がいるのにずかずか入ってきたこの若者が将来的に大臣になっても、世のためにならないと判断したのか?或はそれを覆させるほどこのまき人さんが優れていると見抜いていたからか?」などと
妄想が広がります。

いずれにしても物語なので、まったく結論も出ない話ですが。

まきひとさんは真備さん

そして実はもうお解りの方も多いと思いますが、このまきひとさんは
吉備真備さんがモデルだと言われています。

ですからこの物語の舞台は、岡山県倉敷市と、総社市の一部に当たる地域であり、奈良時代の話とされています。

そしてここからが、先日からの大宰府政庁跡地などに繋がる、更に話したいことになるのですが、まず、この真備さんはなんと唐に2回も行かれているのです。

はじめは留学生として717年から17年向こうにいて天平6年(734)帰国。
次は752年ですが、この時は遣唐副使としてとなっているので、これは役職なのでしょう。再度入唐し、752年からで753年には帰途につきますが、屋久島の漂流したり和歌山まで流されたりでやっとの思い出の帰国。

ただこの真備さんはちょっとした大宰府に関わるクーデターで絡まれまして
その後のいろいろごたごたを避けたい帝の思惑で、このような扱いを受けていたと言う説もあるようです。

一度目の遣唐使の時に、唐で安倍仲麻呂玄昉と共にすごしたのですが、
帰国後しばらくして突然、筑前守として左遷されます。
そののちしばらくしての2度目の唐への派遣でした。

ただ、この大宰府に左遷の間、この西の政庁である大宰府の軍備や防衛の基地を整えたり、学校もつくっています。府学校という名で、官人養成機関、役人を養成する学校です。

そして、その跡地には今も石碑が建っています。けれどそれだけで、ただ草がはえていて、ただ石碑があるだけのような場所です。少し建物跡のしるしのように柱石の名残のようなものがあった気がしますが。

でも、ここも好きな場所なのです。ここに立ついろんな音や声が聞こえてくる気がするのです。特に風が舞い、草がなびくと、沢山のにぎやかな楽し気な声ざわめきが訪れる、そんな気がする場所です。

秋のそのあたり

真備さんは、儒学や天文学・兵学・音楽などを学んで帰国、多くの書物や、武具、楽器などを持ち帰っている人なので、きっとここでも何でも教えられたのでしょう。また、陰陽道にも通じていたとかいないとか、そんな話も伝わっています。ちなみに大宰府にも勿論、陰陽寮はありました。

そして真備さんは2度目の唐からの帰国後、無事都に復帰、もらった夢のお告げ通り大臣になりました。でも、もしかしたら、人の夢をとったからでしょうか? なかなか苦労して大臣に慣れたという所が面白いと思いますし、どこかでこれを頼みに、必ず可能はず、あの夢がついていてくれる、と信じたからかもしれないとも思います。

ともあれ、夢解き人としては、古くに残る物語のモデルが、また大宰府政庁跡地に関わっていたということに、親しみと喜びを覚えるのでした。

時系列で

ここにあらためて順番にならべておきます。

661年 百済が唐と新羅に滅ぼされ、百済王子を救出すべく大陸に渡るべく                       斉明天皇が筑紫の朝倉宮に赴くも、遠征前にその地で崩御

686年 母斉明天皇の追善のため天智天皇の発願で観世音寺と戒壇院が建立
      飛鳥川原寺から伎楽団が観世音寺に入る

730年 大伴旅人さんが令和の名前の由来になった梅花の宴をひらく

750年 吉備真備が大宰府に赴任

753年 鑑真さんが観世音寺で戒を授ける 
     12月には鑑真さんがきてくれたおかげで日本で初めての授戒を行う

761年 観世音寺に戒壇院が西海道(九州)の授戒の場として設けらる

794年 平安遷都

806年 空海さんが唐から帰国して観世音寺にはいる

こんなに色々ある場所です。

太宰府政庁跡地や伎楽団などについての記事および音声配信はこちら

また、学者から大臣になったのは吉備真備さんと菅原道真さんだけだそうですが、おふたりともに、大宰府に流されているのもいろいろ思わせます。

いつも壮大な世界観と遠くにつながるような澄んだ空気を感じながら、同時に、物悲しさや郷愁にふれる場所、それがこの大宰府政庁跡地近隣です。

流された人、左遷の人、故郷へのなど、様々な思いがあるからなのではないかと思います。そして、わたくしもまた、この土地の者ではないので、今はもう慣れたとはいえ、はやりホームタウンは別の場所、彼らが都を懐かしんだ気持ちがわかるからなのかもしれないとも思います。

最後までおつきあいいただきありがとうございました。


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