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結局のところ失敗の数だった

例えば、人生でモテてきた人たちに恋愛の話を聞くと、どれだけアプロ―チしたのかを話され、結局のところ経験がものを言うという結論に至る。

偉そうに「あなたは何か挑戦したのか。失敗を恐れて何もしていないだけ。一度や二度の失敗なんかで挑戦したと語るな。」と言ってくる人だっている。

成功体験が必ずある人にしかこんなことは言えない。こっちはそんなことは分かっている。分かっているけど、成功体験がないから本質的に理解できない。
うるせーよ、黙っとけよと吐き出すのを押さえ、結局何も得ることのできない自分に嫌気がさし、自己嫌悪に陥る。

モテてきたやつにこっちの気持ちなんてわかんねーよと息巻いていた。

でも、結局のところどれだけ挑戦したのか、失敗したのかで自分の求める成功に近づく。

成功体験を経て失敗がどれだけ重要か身に染みて分かる。どんだけアプローチしても返ってこなかったあの日々。ご飯の誘いを断られる絶望。

あの経験が無ければ今の自分はいない。

思えば人生はなんでもそうだった。
ここまで行けるかなと挑戦した部活動。目標へとひたむきに努力した受験。思い立って立候補した組織の代表者。
電車の発車時間ぎりぎりを狙って家を出たことだってそう。自分には似合わない服を着てみたことだって同じだ。

全部が全部、経験と体験を経て知っている。
好き嫌いがあるのもそれに触れたことがあるからだ。

失敗と成功を繰り返してそうして自分という芯が作られ、そして年齢を重ねて気付く。挑戦とはそういう価値がある。挑戦という言葉がちょっと壮大すぎる。じゃあ、やってみるでいい。触れてみるでいい。そうしたら少しは印象が変わるかもしれない。

だから、挑戦挑戦という人は本質的には合っている。でも、挑戦の重要性は自分で気付いて初めてその価値が分かる。挑戦という言葉は浅い。その行動が深い。

結局のところ失敗の数で、自分は変わるし、世界は変わる。でも簡単じゃないからこそ、失敗の数だけ成功体験が鮮明になる。

成功体験を盾にして挑戦という刃を振る、そんな人は無視しておけばいい。
実は挑戦とは誰もが多かれ少なかれやっていることなのだから。

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