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よりよきものを

4~5月、NHKのBSで「舟を編む」のドラマをやっていたので、うちのひと(=夫)と観ていた。
むかし映画では観たことはあって、こんな話だったかなあと記憶をたどりながら、毎週楽しみにしていた。

とはいえ、映画の記憶はおぼろげで、年月を経たうえでのドラマなのでドラマでオリジナルの要素を追加しているに違いない。どちらにしても原作とは当然違うところがあるだろうと思ってはいた(後半でコロナ禍の社会状況が描かれたので、そのことはよりはっきりした)が――。
めずらしく、原作には手を出していなかった。

小説や漫画がドラマ化・映画化されるのにあたっては、原作からいろいろな変化が生じることはもう、ごくごく当たり前のことになっている。
映像化するというのは、きっとそういうことなんだろうと思う。
が、多くの作品がなぜ原作そのままでの映像化されないのか、について、ごくごくシンプルな疑問として持ちつづけている。

なぜなのか?

たとえば、ミステリには、活字だからこそゆるされていたトリックがあったりする。それを映像化するとなると、活字ならではのその世界をうまく表現するために――あるいはそれがなかったとしても視聴者を満足させるために――工夫や変更が必要になる、とは理解できる。
映像化するときに矛盾や不整合が判明したから、つじつまを合わせるために変えることもあるだろう。

ただ、初めて戸惑ったのは、相棒役が男性から女性になっていたり、原作に登場しない人間が出てきたこと。
大筋が変わらないのだからいい、のかもしれないが、こんな人出ていたっけ?と原作を確認したことがあった。
原作を再度手に取るチャンスになるのだから、本にとってはある意味では悪い話ではないのかもしれない。

それにしても、原作からの変化はなぜ”当たり前のように”生じるのか。
そうしたほうがドラマとして面白くなるから?
そういう単純な理由と考えてよいのだろうか。
魅力的なキャストを起用するために、特別な設定が必要になるから?
だから、改変される?

それはつまり、「ビジネス」の観点から?
すべて原作どおり忠実に表現できたら、あるいは忠実に表現できて、興行的(視聴率)にも満足のいく結果が得られればそれですむが、そうはいかないから、といったような?

あるいは、ビジネスの観点は別とした、単純で純粋な欲望――原作に対する「よりよい変化」を求めるチャレンジとか?
ここをこうしたら、もっとわかりやすく伝わる、もっと盛り上がる、自分ならこう演出する、こうしてみたい、作り上げる……といったような?

まぁ、きっといろいろな理由はあるにちがいない、と想像をめぐらす。
いずれにしても、原作に忠実であることが、必ずしも視聴者の満足を得られるというわけではない、ということはあるんだろう。

「忠実」とは

ところで、わたしはなにをもって原作に忠実と感じるのだろう。
一言一句原作を覚えているわけでもないのに。
原作を先に知っている場合には、ストーリーはもちろん、その雰囲気や世界観であったりする。
自分が小説で活字で読んで、イメージを膨らませていたものが、具現化されているかどうか。
色や匂いのようなものも含めて。

たとえば、個人的にはジェレミー・ブレットのホームズ、デビッド・スーシェのポアロ、ジョーン・ヒクソンのマープルなど、原作に忠実、と評される俳優の演じるドラマシリーズのほうが好みではあるが(こういうとき、自分は保守的だなと実感する)、それらだってストーリー展開の点で完全ではないこともあるし、人によってはそれを「原作に忠実ではないキャスト」と感じる場合だってある。
もちろん、それ以外のキャストで演じられていても、その作品そのものが好きだったり、どう展開されるのか気になったりするので観ることが多い。

原作ではシリーズものではなかったのに、テレビではシリーズものの一つに化ける――クリスティー作品はそれが顕著で、ポアロものじゃないのにポアロものにされたり。
物語の筋は変えず、探偵役が変わるということも、たしかに可能だ。それは海外ミステリに限らず、日本のミステリでも二時間ドラマで同様のことがある。多摩南署の近松丙吉シリーズとか霞夕子シリーズとか。
そうそう、近松丙吉シリーズは、原作者はバラバラ。霞夕子は原作者は夏樹静子だけど、必ずしも霞夕子が謎解き役ではない。
だから、ときどき「あ・この話知っている、なぜだろう」と思うドラマに出会うことがある。記憶と違う登場人物や設定で話が進むのだけれども、トリックは同じ、というような。

根幹は忠実なのでよいのだろう。それもまた、原作者に了解を得てのことだろうし、視聴者はそうそう被らないかもしれないので、それでいいのかもしれない――が、しかし、どこを守れば「忠実」で、どこまでバリエーションが認められているのだろうか、などとちょっと考えてしまうのである。

漫画からドラマへ

イメージがしやすい、ということから、漫画原作のドラマ化についても少し考えが及ぶ。
アニメ化は、いわば静から動への変化。コマからコマへの場面転換に、人間的な動きが加わるだけ――だけと言ったら語弊はあると思うが――のような気がする。どんな声で演じられるのか、ということはとても重要と考えられているように思うが、登場人物やストーリー展開にそうそう「改変」はなされないような気がする。
それこそ原作にないキャラクターを登場させたりすることは、かえってややこしくなってしまいそうだ。
二次元という世界観で”絵的に”完成されているからだろうか。

漫画のドラマ化・映画化の場合は、アニメ化と同じく”静から動へ””ではあるが、リアルへの転換という点が違いになるのだろうか。画面を描かれたコマは、漫画ではキーとなるもの。それをつなぎあわせたものを”動画”にする。
一番見せたいコマに向けて、漫画では描かれていない場面も必要になるはずで、それはまた、イメージになる絵があるからいいということでもないのかもしれない。

最近は、このドラマも漫画が原作だったのか、ということが目立ってきたような気がしていた。映像化するためのイメージがすでに決まっているようなものであり、小説よりもハードルが低くなるから――などととらえていた。しかし、それは短絡的な考え方で、そんなふうに単純なことではすまないのに違いない。

よいか悪いか

小説や漫画を映像化するのが「よいか悪いか」と考えるのは、ナンセンスなんだろうと思うようになったのは、いつからかわからない。

けれども、ドラマや映画がおもしろくて原作に回帰してみたくなることがあったり、原作を知っていて試すように見てみたらそれなりに楽しめたり。
単純に忠実性という点だけで評価すべきではないと気づいた。

冒頭に挙げた「舟を編む」はとくにそういうことを感じさせられたドラマだったと思う。
原作のよさが失われず、時代にあわせて人々や社会がアップデイトされていた。原作には当然そんな場面はないだろうと承知していながらも、実家の母が原作を持っているのを思い出し、借りてきて読んでみている。
ああ、原作ではそうだったのかと愕然する部分もあったが――しかし、ドラマでも”辞書作り”で言葉に向き合う/向き合わざるを得なくなった人々の姿勢と熱量という本質をよりよく感じることができたので、原作との差異もまた楽しめた。

必ずしも悪くなるわけではない。
当然だ。
よりよいものを作りたいと、本来は思って映像化の構想を練るのだろうから。

原作とドラマを行き来して楽しむ――。
そういう作品にまた出会いたいし、きっと出会えるに違いない。
きっと、ね。

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