前時代的
あるいは時代錯誤、と言うべきなのかもしれない。
これは自分のことだ。
そうだ。
むかしから「流行」にはついていけなかった。
そもそも”ついていけない”という表現にもやや抵抗がある。
ついていくべきもの、という価値観がないからだ。
母はビートルズにはじまり洋楽志向、父ともどもクラシック好きだった。その影響はだいぶ受けたが、そういうわけでベストテンなどといった日本の音楽番組にはほぼ無縁だった。
そういえば紅白歌合戦はどれくらい熱心に見られていたのだろう?
ともあれ、流行りの日本の歌謡曲(今ならJ-POPというべきなのか?)とはあまり縁のない小学生時代を過ごしたと思う。
せいぜいピンクレディーくらいだったか(それも隣のお姉さんちからの読み物を通じて知った)。
小学校の高学年くらいになると、それ以外の「流行を知らない」ということを天然記念物のように思われたらしく、からかわれることも多かった。
中学になって、自分の好きな洋楽を一生懸命ラジオで聴きテープに(!)録音し、テレビでMV特集なんかをやれば録画し保存し………。
付随して日本の歌もいろいろ聴くようになったら、今度はこれまた珍しく思ったらしくて、わざわざ隣のクラスから「この曲はなんでしょう」クイズみたいなのをしにきたこともある。
「あの〇〇ちゃんが、イマドキの歌謡曲を知っている!」という驚きを得られるのが楽しかったらしい。
自分のペースで、自分が好きに選ぶことがちょっと変わって見えるということなのか。
そもそも、”進んでいる”、”イマドキ”、”時流にのる”……いろいろあるが、いつでもなんでも、あんまりそのペースに合ってはいないのだろうな。
だいたい流行はだれがつくっているのだろう?
それはなんのためなのだろう?
そんなことを感じた中学時代だったことを思い出す。
なぜそんなことを思い返しながら、「前時代的」とつぶやいているのか――というと、どうということのない出来事がきっかけだ。
早送り再生でドラマや動画を見る人々、生徒たちや学生たちの進路決定時期が早まっていることを知らされるニュースに触れたこと。
そして、それを武器に挑んでくる人たちがいること。
これらは、人生の時間を無駄にしないで生きるために不可欠な行動なのかもしれない。
それはそれである意味正しくもある。
ただ、あからさまに商品として売りつけられること――たとえば、「これが時流ですよ」「乗り遅れたら大変なことになりますよ」と言って商品を売り込んでこられると、距離を覚えてしまう。
そういう脅しまがいの売込みが繰り返され、げんなりし、うんざりしてしまった。
押してダメなら引いてみよ、ということもできるはずなのに、ぐいぐいと「時流」を武器に突っ込んでくる。
引くことを知らず、流行をふりかざしてくる。
流行に乗らないことは「もったいない」のだそうだ。
そうなのか。
まぁ、おそらく、きっとそうなのだ。
それがビジネスの面では正しいのだろう。
けど、疲れてしまった。
それは、自分が時代の流れにはのっていないことを、明確に意識させられたということでもある。
センスとしてはたしかに「遅れて」いるんだろう。
しかして。
時代の流れ。
その時流はだれがなんのためにつくっているのだろう?
中学生みたいに疑問を覚える。
流行がつくられ、それに乗っていくことで幸せを味わえる人たちがいる――そして、そのことで儲けられる側があるならば、それはいわゆるWin Winの関係だから何の問題があるんだ?と言われるようなことかもしれない。
そう。
幸せに生きるために、流行がある――幸せをより幸せに感じることができるために流行がある、というのも事実なんだろう。
それを追いかけて追いかけて、さらにおおきなうねりを作って時を進めていく。この波に乗ったほうが得なのだと、皆が言う。
おおきなうねりの中で味わうものは人それぞれ。
でも、どこかのだれかだけが得するようになっているだけの仕組みなら、いらないんだよね、と思う自分が登場する。
別に流行モノがすべてそういうことではないだろうとは思うのだけど、あまのじゃくゆえに、心に滞留したちいさな頑固が浮かんでくる。
凝り固まっている部分がある。
そういうものを、とくに恥ずかしくもなく受け止めている自分がいる。
ああ。
こういうところが、とりわけ前時代的なんだろうな…………。
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