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迷いある日常

年明け早々に能登半島で大きな地震があり、何ができるでもない日々が過ぎる。報じられる状況には落ち着かない気持ちを抱える。

それはきっと自分だけのことではないだろう。
立ち止まって悶々としたところで、何の役にも立たないとわかっていながら、ふとした瞬間に「いいのだろうか」とためらう。
ただ、それでもわたしは日常を歩みつづけている。

こういった大きな災害――戦争もそうだが――「それまでの日常」がなくなっている状況が報じられると、現地ではそれが「今の日常」に変わっていくのだということに気づかされる。
「それまでの日常」がかえってくる見通しがすぐには立たない。
復興したあとも「元通り」と言えるかどうかもわからない。
もちろん、「元通り」以上の復興もあり得るだろうけれども、どちらにしてもすぐにというわけにはいかない。
今日と同じ一日として明日があたりまえに続くものではない、ということを思う。
毎度そう感じることがありながら、このことが深く身についていない自分に失望する。

もしもここが災害に遭えば、一瞬にして失われる。
家族を失い、住まいを失い――あるべき日常を失い――今まさにその不自由で不足の多い日常を過ごしている被災地の方々と同じように、不便や不自由を感じるはず。
なのに。

不可抗力で失われたときのことも想像できるならば、もう少しふだんから身軽に生きるべきなのに。
なのに。

別れがたい

自分は物欲の高いほうだと思う。
そして、モノに執着してしまいがちだ。
すべてを記憶できているわけではないくせに、手に取ってふとしたときに思い出すくらいのモノにまで、いざ処分するかどうかと考えるときに、なかなか即断できないことも多い。
なにかに使えるんじゃないかとか、
くれたひとの気持ちに勝手ながら思いを馳せたりとか、
もったいないという気持ちや、ちいさな思い出でためらいを覚える。

何だってどれだって、どこまでも持っていられるものではないんだよ、と言い聞かせる。
今持っているものは永遠ではない。
経年劣化で廃棄せざるを得なくなるものもあるだろうし、自分自身がずっと保管しておきたいと思えるかどうかも、実のところはわからないのだ。

部屋で探し物をするたび、ふいに現れてくる思い出の品を見て、自身に問いかける。
「これまで無くても困らなかった・悲しまなかったものだよね?」
使えるかどうかの実用性、または痛切に手元に置きたいと願う気持ちを、自分で判断するように問いかける。
結果によって、「使えるというのであれば、今すぐ使って使い倒してしまいなさい」、「悲しみを伴わないものなら、もう捨ててもいいんだよ」、と。

そうしてようやく別れへの一歩を踏み出せるというわけだ。

と、ふと気づいたことがあった。

ブックカバー

おととし(2022年)、ここnoteでの投稿を始めた。
ここでも迷い迷いしながら、思いつくままに投稿しているのだけれど、「チラシ再利用ブックカバー」の投稿も、なんとなく続けている。

これ、このチラシ(ときに包装紙)再利用についても、同じようなプロセスを経ている。

展覧会の内容もチラシデザインも気になって、手元に持ちたいと思ってしまってピックアップしてきたチラシ。
デザインやイラストなどが気に入ったのはもちろん、デザインには特別惹かれなくても、思いのほかきれいに解かれた包装紙や壁掛けカレンダー。
いずれも捨てるに忍びないと感じれば、たまっていく。

それらは、資源ごみとしての分別でいえば、「紙」。
決して無駄にはならない。ならない、とは理解しているのだが、このまま手に取ったあと、素通りみたいに分別ごみ送りにすることに抵抗があった。

そのときに思いついたのがブックカバーとして使ってみること。

一度でもなにかに流用したらば、お別れしやすいのではないか?
それも、ブックカバーならいわば表舞台に立つ機会になるともいえるので、なおよいのでは??

書店のカバーをもらわなくなって久しい。
いつからか職場の書店では基本書店カバーなしになっている。古本を買えばカバーはついてこないのが当たり前。
いや、基本カバーなしで対応してもらったほうがよいのだ。
書店によっては「あ・ほしい」と思えるものもあるので、そういうときはいただくけれど。

チラシと本の組み合わせも楽しい。
あまり考えないこともあるけれども、ちょっと考えて合わせてみるとなかなか楽しいこともある。

ちなみに、文庫本のブックカバーとして、A4サイズのチラシはちょうどいい。新書版もいける。
でも、四六判や菊判の単行本は、よほどの薄いものでないとおさまらない。お菓子屋さんの包装紙などのほうがよい。この場合は裁断調整が少々必要になることが多いけれども。

A4サイズのチラシは長辺を折り込む調整が必要になるが、慣れてくると文庫本サイズの高さに上下折りたためるようになる。
一つのちいさな”学習”なんだと思う。これは地味ながらも自分にとってはささやかな喜びでもある。

そうと決めてとても心が軽くなった。
気持ちよくチラシやカレンダーとお別れできるようになった。

が、これはこれでまた一つよくない癖が目立ってきてしまったという不思議……。
いや、不思議ではないか。

大義名分のもと、チラシをとっておく――というより集める傾向が出てきてしまった。

ストック癖

チラシでもこれが発動されると厄介だ、と自分でも思う。
別れがたさが強くなってしまうではないか。

シールやノート、切手……気に入ったものは、使う用と予備と、最低2つ購入するのだが、これがなかなか手ごわい。
予備ってなんだと言われるが、使いきってしまったらもうその柄に出会えない、入手できないかもしれないじゃないかと思ってしまい、ドキドキしてしまうので、その心の安定という意味がある。
でも、ひどいときは2セットでは足らない、その倍くらいストックしておこうと思ってしまうモノもある。
多くはないが、そういうモノは「なくなってから買えばいい」とは思えないし、そもそも先に言ったような言い聞かせは効かないので――相当の強制執行がない限り、お別れできない。

チラシの場合、本来の目的であるお知らせ内容に興味があるのがほとんどではある。そこに示された展覧会や舞台・演奏会のお知らせに興味をもって手に取る。
が、そうではなくて、チラシのデザインにのみ目がとまっていただいておく、という場合もある。
「出かける予定はないのに」という場合も、ついつい。

それでも文具のストックと違うのは、ブックカバーのために取っておく、つまり「使うためにもらっている」という理由がちゃんとある。
実際、ブックカバーにしたあとは、たしかに処分できているのだから、いいよね、なんて思ってしまう。

問題は、なかなか使い切るめどが立たないという点だ。

おかしな話で、そのまま捨てがたいと思っていたチラシをブックカバーに使ってから捨てる――というステップのために思いついたはずなのに、今ではブックカバーのためにチラシを集めている。

書いていて、自分のデスクの引き出しをちらっと検めてみたところ、だいぶたまっている………………。
いずれもブックカバーとして使う機会があれば、お別れできるはず。

そう、いずれ捨てるのだから、積極的にとっておいていい――という気持ちになってしまった。メビウスの輪のような。

いや、単なる悪循環かもしれない。

ループ

あれこれ連想しながらたどりめぐらす思考は、大小さまざまなループを描いている。迷い迷いしながら過ごす日常とは、そういうものかもしれない。
どんなときでも迷いある日常は続くだろう。

避難所暮らしの人々のニュース映像は繰り返し流れる。雪景色、雨模様、人々の声……そこに映るのは、明日も続くはずの命。
再び自省する。
何ができるかなど思いめぐらしはじめてみる。
単なるループ思考にならないように、自分の身の回りから目線を少しだけ遠くへ移す。行きつ戻りつのような弧を描き、それでも、1ミリでも外周が広がるような考えにたどりつけるように。

迷いある日常を、進むべき道を見出していくものとして過ごす。
少しでも、何か一つでも、意義あることをささげられるようなひとときにつながっていくことを願って。

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