タイガー・アイ

オニキスのような髪だ。歯の浮いたようなセリフが頭の中で思いついた。
春の初めにしては蒸れた汗の匂いが充満している夜の2号車は、春の初めらしく甘い酒の香りもあった。
幼い肩のはみ出たフリルのシャツに似合わない紫色の缶が、余計に学生の幼さを際立たせている。

日が暮れた電車の中は蛍光灯が化学的な白い光線を出し続けていて、さっきまで見ていた肩がのっぺりした白いプラスチックのように変わってしまったようだった。

私は一息ついて扉の脇の背もたれに寄りかかった。さきほど飲み込んだおむすびが胃で消化されているようで、私は心地よい腹の重さを感じた。

パチパチと唸る吊り革を掴んでる人はいない。
代わりに四角い電子機器を顔が吸い込まれるくらいに近づけて立っている人が何人もいる。
目線を少ししたに動かせば似たような首の形をした青白い肌の青年が座っている。

ここ数年ですっかり変わってしまった何時もの車内の風景である。

その中に、彼女はいた。正確に言えば、頭があった。
老木の幹のように黄土色の筋が入り、間には濡烏の妖艶な黒髪が覗く。
よく手入れがされているようで、生え際から毛先まで、まるでゼラチンで塗ったかのように光っている。

オニキスのような髪だ。歯の浮いたセリフが頭の中で思い浮かんだ。

同時にこの比喩の擦り切ったつまらなさに辟易した。
否、思いついた瞬間は脳の一部分に水羊羹のように甘くてつるんとした達成感とことばの喉越しの良さを感じたのだ。
ただ、何度もこの文章を反芻するうちにことばは味気なく、ざらざらとした不快な響きに変わってしまった。

それくらいこの鉱石は数々の小説、短編に登場し、もうあの美しさを宝石に例えることは私のような付け焼き刃で綴る物書きにとっては大変に難しい技術だったのだ。

そして、浅学な私と迷妄な脳はオニキスが実際に何を意味するのかもわかっていなかった。その時の私にとってこの異様な4文字で表した石は、ただの小説に置ける比喩の記号にすぎなかった。私はページの上で踊らされる操り人形だった。

体の片隅に生まれた不快感と好奇心。薄い金属とガラスでできた板をポケットから取り出し、慣れた手つきで液晶に指を滑らせた。

画面が黒一色に染まり、私は私の知識が脳から剥がれていく衝撃を味わうことになる。
そうか、彼女は。オニキスではなかった。


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