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翻訳文学の世界が好きだ

言語化できない景色を眺めながら、虚空を見つめる。

あのロシアの素晴らしい大教会も、ドイツ旧市街の見慣れた赤レンガの絨毯もワイキキの真っ青な海の色も日本語という記号にはそれを表す適当なものがない。
あのロシアの無機質な美はキリル文字がよく似合う。ドイツの形式ばった文法は、典型的なドイツ地方都市の特徴にそのまま当てはまる。自由でのびやかなハワイ訛りは、あの小さな島々の人々が開放的である一つの所以だ。  

 言語を用いない芸術は、それらの記号を知らぬままの人がつくる新たな記号の形であると思います。それを解するのは人々に普遍的な知識であり、それまで彼らが受け取ってきた経験であり、それに伴う感性です。

 翻訳の分野はまた違う、文化と歴史に絡みついている言語を剥がし、辞書と格闘しながら、また日本語を解する人間の偏見とも対峙しながら、なんとか文学作品として日本語を組み立てる行為だと認識しています。

 それはある意味で芸術をうみだすよりも難しい行為だと思います。
よだれを垂らした野犬のような読者が批評家気取りで翻訳を罵るのにも、耐えなければなりません。それに、常に原作との乖離に眠れない日々も続くはずです。

 私は翻訳作品に小さい頃から慣れ親しんでいたので、翻訳作品にみられる特別な言葉の群れは好ましく思います。
 
 編み上げ靴にコケモモのジャム、トーストとピーナッツバター、教会の祈りと愛。ダンテの『新曲』とランボーの詩…―。

 小さい頃はあのジャガイモと干しインゲンのスープはどんな味がするのだろうと空想を広げたものです。
 
 あれだけ日常で私が友人や家族の会話やテレビショーで流れる日本語が、紙の上では全く違う言葉として輝くのです。瞳に小さな星屑が張り付き、思わず目を閉じてしまうくらいときめく羅列が翻訳されたものには浮かんでいます。その輝きは元の本にはないものです。

以上が私が翻訳文学と親しむ理由です。

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