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『第三の男』

 最近、俯瞰の写真を多く撮ってて(理由は後述)、ふと思い出したのが『第三の男』という、サスペンス映画で有名な大観覧車のシーン。

 ネットで検索するとどうやら「鳩時計」の箇所が知られているみたいだが、私が印象に残っているのは刑事&法廷ドラマ「LAW & ORDER」でも引用された殺人犯の台詞である。

主人公「犠牲者を見たことがあるのか?」
殺人犯「そりゃ、俺だってこの商売には気が滅入るが… 犠牲者? 大袈裟すぎるぜ。(観覧車の扉を開け、地上にいる遊園地の客を示し)見ろよ。あのちっぽけな"点"が止まっちまうことがそんなにも気がかりか? もしあの"点"を止めるごとに2万ポンドやるって言ったら、お前はそれでもいらないって言うかな? それとも、何人なら助けても良いという計算を始めるか? 税金はかからないよ、もちろんね」

(引用はアマプラの吹替版より)

 犯人が自身の罪を肯定するために用意した、いかにも乱暴な理屈。しかし、犯人の"点"という比喩は自身の、被害者に対する「無関心」を説明したもので、「無関心」の比喩としては妙に的確で、だからこそ恐ろしくも響く。ちなみにL&Wではインフルエンザワクチンの偽薬を医師に販売した被告の犯罪心理を説明・糾弾するものとして、この台詞が引用された。

 写真撮影は関心の反映という側面もあって、無関心なものにシャッターを積極的には切らないし、切ってもアップできるような写真にしない。そして私がInstagramにアップロードしている、モノクロ写真を撮り始めてからの数ヶ月間の写真を確認してみると、「群衆」そのものを写真に収めたものはほぼ無い。あるのは群衆から切り出した、または群衆から離れた1〜複数人の人物である。私自身人混みは好きではないし、今だってそんなには変わらない。なんならこの犯人の心理をどこかで肯定的に受け止めてしまっていたかも知れない、ストレスフルな日々を通じてそういう感覚が醸成されていたんじゃないかという、よからぬ疑念さえある。

 しかし、牛腸茂雄やジョセフ・クーデルカといった面々をきっかけとした「俯瞰」の撮影をするようになって、全くの拒絶しかなかった距離感が少し変わってきた感じも少なからずある。好悪の感情は変わらないが、そこに伴う逃避的な感情態度が薄れて、そこに向き合おうという感情が生まれたような気もする。それが「関心」ということだろうか。
 少なくとも今は、冒頭に引用した犯人の言葉をきっぱりと拒絶できる気がする。そこにあるのは無関心であっていい「点」ではなく、止まったら人を呼んだり、必要に応じてAEDを探したり救命活動をしなければいけない「人」である。

 写真撮影は関心の反映だと書いたが、写真撮影を通じて関心を作ることもできるのかも知れない。もちろんそれが良くない方向に進むのならばコントロールしなければならないが、良い方向に変えられるものだとしたら、写真撮影をしていて良かったと、心の底から思えるような気がする。

 写真って面白い。

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