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2017年12月30日。石巻でTHA BLUE HERBのライブを観に行った時の話。

 日本の場合、40歳男性のうち、1年間に死亡する人間は10万人に1人に満たない程度だという。日本の40〜44歳男性の人口は416万人程度だから、40歳男性の数は÷5をして83万人というところ。単純計算で8人ということになる。この8人のうちの1人に自分がなるとは、「普通」の男性は思わないだろう。

 しかし私は2017年、34歳の年、ある特定疾患(治療法が確立していない難病)を悪化させていた。当時その病気は軽症から中等症へと進行し、あからさまにその症状が重くなっていく。発症から数年以内に起こると言われる重症化のリスクにも震えていた。
 この時なんとなく、私はひょっとしたらその「8人」のうちの一人になるかも知れない、そんな考えに囚われるようになっていった。

(ちなみに現在の私は40歳で、あと5ヶ月弱で41歳になる。良い意味で自分の思う通りにはならなかったものの、それでも大きな手術を経験したので、気分としては少し複雑だ。)

 そんな状況のなか、私は「自由に行動できなくなる前に」と、体調不良を押していくつかの場所を訪れることにした。治療法が確立しない病気である以上、いくら休んだところで回復するわけではない、ならば進むしかない。愛媛、広島、名古屋… 国内ばかりだが、日帰りだったり泊まりだったり、その年だけで合計6箇所ぐらい回っただろうか。気分としてはちょっとしたツアー感覚でもあった。

 そして、その「ツアー」の2017年最後の地が宮城県石巻市だった。まだまだ復興に向けた工事の最中、なんだったら震災遺構としての小学校校舎の保存を巡り紛糾していたり裁判していたり、そんな時期ではあったのだが、私は個人的に2012年3月に訪れた経験があり、その時のあの場所が現在どうなっているか、「その日」が来る前に知っておきたかったのである。
(ちなみに当時の私はニュースに真正面から向き合えるコンディションではなく、そういった市の状況をよく知らなかった。震災遺構に関する話題を知ったのは大学の卒業制作の題材としておよそ10年分のニュースを総ざらいしていた、2022年のことである。)

 加えて、ヒップホップグループのTHA BLUE HERB(TBH)がその年の12月30日に石巻でライブをやるという。直前に訪れたTBHライブ(台風直撃の中開催された日比谷野音)にいたく感動していた自分にとって、彼らが石巻でライブをやる、やってくれるというのは、凄い巡り合わせだと思っていた。私は本当はもっと早い時期に訪れる予定だったのをキャンセルし、大晦日周辺のホテル探しをしていた。さすがに「寒い日に行くのは大変じゃないか」と言われたし、実際行ってみたら大変だったのだが、それでも行くしかない、この日じゃないと嫌だとすら思っていた。


 そして。
 12月29日に仙台に前乗りし、翌30日に電車に乗って石巻へと向かう。

 以前のルートだと例えば野蒜駅など、代替バスの移動を通じて様々な「被災地」を巡る形となっていたが、仙石東北ラインの車窓からはそういう風景はあまり見えてこない。
 スマートな移動が当時の自分にとってありがたい反面、訪問先の光の部分、都合の良い部分ばかりを見て影の部分を見ようとしない。なんだか悪い「観光客」になってしまったかのような、少々申し訳ない感覚もある。
 遮光フィルムで緑がかった窓の外、牧歌的ともいえる田畑の風景。そんな風景を、列車は足早に通り過ぎていく。

 仙台駅から小一時間ほどして雪が残る石巻駅に着くと、私はまず駅前に当時あったレンタカーの店で自転車を借り、石ノ森萬画館を訪れた。2012年当時はまだ開館できるような状態ではなく、入口窓に飾られた大量の寄せ書き(藤岡弘、の直筆もあった)、そして片足を失って残骸となりかけていた自由の女神像をよく覚えている。

2012年撮影。非常に象徴的。

 自由の女神像は2012年のうちに撤去されていたことはSNSで知っていたが、何よりも石ノ森萬画館が運営再開していたことが私にとっては大きい。私は再び「観光客」となり、ベンチに座るライダーの隣に座ったり、入口に飾られている漫画家たちの手形と自分の手を比べたり、手の銅像に握手をしたりしていた。

 一通り萬画館を見回った後、再び自転車を漕ぎ出す。いよいよ門脇小学校へと向かう。

 5年ぶりに、自転車で訪れた校庭には金網の仕切りが設けられ、校舎にはグレーのシートが被せられていた。後に知ったことだが、校庭は近隣の中学・高校が利用するグラウンドとなり、校舎は利用する学生・そして近隣住民の感情を害さぬようにと一旦覆われたらしい。当然、部外者である私が中に入ることは許されない。

門脇小学校。2015年に廃校となり、グラウンドのみが近隣の学校に使用されていた。

 「現状確認」という意味では複雑な思いもあったけど、きっと何かが進んでいる、そう信じて私は再び自転車を漕ぎ出した。
 復興記念公園の整備工事が進むなか、間を縫うようにして私は移動し、最終的には海(石巻湾)に到着した。5年前も徒歩移動ながら「海を見たい」と思っていたが、強風が吹き、瓦礫のトタン屋根がゴロゴロと飛び交う状況であり、それは文字通り危険だと思い実現しなかった。
 いわば5年ぶりの「悲願」だったわけだが、私はただ着いたというだけで、それ以上の感動も何もなかった。公園の工事も終わっておらず、それどころじゃないという気持ちも強かったのかもしれない。

 そして私は踵を返して駅よりも北の方に進み、たまたま見つけたネットカフェに入って軽く休憩。チェックインの時間のタイミングで駅に戻り、自転車を返却したのち、雪が残るなか、私は(ワンルームマンションを居抜きにした)ビジネスホテルへと徒歩で向かった。

 そしてその日の夜、石巻のライブハウスでTBHのワンマンライブが行われた。雪の積もっていた石巻、夜の寒さにも十分なダメージを受けていたが、暖かいライブ会場に入ればとりあえずはなんとかなる。会場には両側面にたくさんの「木札」が並べられている。私もこのライブハウスに寄付をしていた、目を凝らして探すと「加藤某」という木札が2枚並べられていた。
 ライブは確か19時開演だったかと思う。移動の多い長い1日の終わり、自覚はなかったのだが、ひょっとして疲れていたのだろうか。何があったか、なにを言われたのか、7年が経った今、正直に言えば記憶していないところも多い。しかし多幸感だろうか、ここまでの移動までに感じていた辛さも苦しみもなく、ただただ私はライブに熱中していたことだけは確かだ。

 最後にMCのBOSS(ILL-BOSSTINO)がお客さんとハイタッチをする「恒例」があって、比較的前列にいた私も笑顔でハイタッチをすることができた。BOSSは「ありがとう」と言った。最高に嬉しかったのと同時に、「あぁ、これで最後なんだ」とも思っていたりもした。

 翌日、私はチェックアウトを済ませたのち、再度仙石東北ラインに乗車。仙台駅に着くとそのままレストラン「ハチ」でビーフジャポリタンスパゲッティとやたら膜が分厚いコーンスープを飲み、東京行の新幹線に乗る。社内は東京へと向かう客で、なんとなく程度に混雑していた。

 その時点で、私の抱える何かが好転したわけではない。
 しかし、その帰り道になぜか悲壮感はなかった。 


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