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わたしの福祉 #4_1

 気がかりなことはNさんのことだった。山川所長のNさんに対するあのやり方は、明らかな虐待だった。身体的虐待だ。
 しかし、彼女は自分が虐待を見過ごしたことについて、特に何も感じていなかった。障害者施設における、虐待、あるいはそこまでいかなくても権利侵害は、日常茶飯事だ。軽微な権利侵害は、それが権利侵害だと気づかずに行なってしまうことが職員にはあった。
 例えば非常に忙しいとき、利用者が、
「ねえ、これをして」
 と、言ってきたとする。そのとき職員が、
「ごめんちょっと待って」
 と、言ってしまう。そういうことは実際の現場で、よくあることだった。だが、それは身体拘束の中のスピーチロックの疑いがあった。ことほどさように、無意識のうちに発した一言、何気なくやってしまった行為が、虐待に通じている場合がある。虐待には至らなくても、権利侵害といわれる場合は、どこにでも潜んでいた。
 もちろん、職員の行為を何でもかんでも虐待だと言ってしまえば、支援などできなくなる。
 しかし、今回の山川所長のNさんに対する行いは、致し方なくということではなかったし、偶発的に起きたということでもなかった。両側を体格のいい二人の男性職員に押さえつけられて、Nさんは身動きが取れなかった。もうそれだけで身体拘束だ。その前に山川所長は殴りかかったNさんの腕を掴み、後ろに押していた。あの時点で、身体的な虐待だったといってもいい。何よりもあのとき、山川所長は明らかにNさんを挑発していた。
 職員は利用者に、殴られるままに我慢しなければならないということではなかった。障害者だからといって、何をしても許されることではなかった。障害者でも許されないことはある。Nさんクラスになると、自分の行動の意味を理解した上で、行動していると判断される。自分の行為行動を深く理解しているのか、そこは微妙だったが、人を殴るときは殴ってやろうとおもってNさんは殴るのだ。それが社会的に許されない行為だということも、Nさんならわかっているはずだった。Nさんはかつて刑務所に入っていたことがあるという。それが事実であれば、Nさんには責任能力があると司法は判断したということだった。Nさんが人を殴るという行為は、自閉スペクトラム症の利用者が、パニックで暴れるということと意味合いがまるで違った。
 彼女が以前、故郷の町で勤務していた施設でのことだ。施設をショートで利用している女性利用者がいた。その女性利用者は中程度の知的障害者だった。その女性利用者が彼女にこんなことを言ったことがある。
「わたしたちは障害があるから何をしても罪にならないの」
 女性利用者はその言葉をにたにた笑いながら言った。あたかもわたしを怒らせたら何をするかわからないと、職員を脅しているような印象さえあった。実際、その女性利用者は男性職員に性的な誘いも行う、いわば不良っぽい障害者だった。障害者だから品行方正などということはない。健常者にもいろいろな人間がいるように、障害者にもいろいろな人間がいる。ただそれだけのことだ。
 その言葉を女性利用者に言われたとき、別に腹も立たなかったのだが、彼女にしては珍しく、反論したい気持ちになった。それは何も、勘違いをしている女性利用者を正すつもりや、良い方向に導くといった、善意からではなかった。
「さあ、それはどうかしら」
 彼女は言った。女性利用者の表情が変わった。
「どういうこと」
 女性利用者は言った。明らかに不機嫌になっていた。
「そういう考え方は危ないわよ」
「どういうこと」
「障害があるから罪に問われないなんて思っていたら、大変なことになるわよ」
「どうしてよ」
「それが罪になるとわかっていて行えば、犯意があるということになる」
「犯意?」
「それが犯罪になるとわかっていて、行うことを犯意があるというの。
 いま言ったわよね。わたしたちは障害があるから、何をしても罪にならないと。つまり、自分のしたことが罪になるとわかっているけれど、わたしは障害者だから罪にならない。あなたはそう考えているわけでしょう。だったらあなたには犯意がある。罪を犯せばそれ相応の罪の償いをしなければならないということなの。
 わかるわね」
「嘘をつくわ」
 女性利用者は言った。感情的な口調になり、むきになり始めていた。
「こういう言い方はしたくないけれど、健常者って呼ばれている人がいるわよね。健常者って意味がわかる?」
 女性利用者は答えなかった。目に怒りを溜めて、彼女を見つめていた。プライドの高い利用者を怒らせるようなことを言っている。彼女は十分理解していた。それでも彼女は続けた。
「健常者が嘘をついても警察は見破る。警察はそんなに甘くない。あなたの嘘なんて簡単に見破る。そして、あなたは裁かれる。あなたが、わたしは知的障害者だからわかりませんといっても、警察は、
『自分が知的障害者だとわかっているなら、自分のしたこともわかるはずだ』
 そう考えるでしょうね。間違いなく、あなたは裁かれる。
 でも、裁かれるのは、罪を犯したときだけ。何もしなければ捕まることも、裁かれることもない。障害者は何をしても捕まることはないなんて、誰からそんなことを教えられたのか知らないけれど、馬鹿なことを考えるのはよしなさい。
 普通に生きるの。普通にね。無理をすることはないから」
 その女性利用者の言葉は、コンプレックスの裏返しであることを、彼女は理解していた。中軽度の障害者の人生が残酷であるのは、自分が健常者ではないということを理解できることだ。自分には手の届かない世界があるとわかっている。自分が絶対に手が届かない世界があって、その世界と共に生きて行かねばならない。別に障害者だけではない。健常者と呼ばれる者にしたところで、たとえば若い実業家の優雅で派手な暮らしを見て、あるいは美男美女の芸能人を見て、才能にあふれる作家を見て、人気アニメの原作漫画を描ける漫画家を見て、憧れ、そして自分は決して彼らのようになれないと思うとき、鬱屈を抱える。憧れが強ければ強いほどその鬱屈は大きくなる。障害者と呼ばれる人たちも同じなのだ。
 Nさんの場合も同じなのだと彼女は考えていた。Nさんが不良っぽい態度をとるのも、結局、コンプレックスの裏返しだった。職員は利用者に何をされても黙っている必要はないが、利用者が問題行動を起こさないように対応することを求められるのも事実だった。そして、山川所長は、職員にそれを常に言っていた。
 だが、あの日、Nさんをふたりの職員に命じて抑え込み、説教をしたとき、果たしてその努力をしたのだろうか。そんなことはしなかった。山川所長は職員に障害者の権利を守り抜けと命じながら、自分はそれをしていなかった。明らかなダブルスタンダードだった。日頃、障害者の人権について、熱く語っている山川所長の、あれが真実の姿。彼女はそのように考えた。
 実はあの後、彼女は山川所長に呼び出されていた。面談室と呼ばれている四角い殺風景な部屋の中、ふたりきりになり、山川所長の言い訳を聞かされた。
「今日のことは驚いたと思います。ああいったやり方は絶対にしてはいけないのですが、彼の場合は仕方がないんです。
 彼のこと、何か聞いていますか?」
「いえ、特に聞いていません」
「そうですか。
 色々な噂は流れていると思いますが、詳しいことは主だった職員にしか伝えていません。主任以上です。
 なぜかと言えば、職員には予断を持ってNを見てほしくないからです。あくまでもひとりの利用者として接してほしい。そう考えていました。それが難しいこともわかっています。Nの生い立ちは非常に複雑です。反社会的集団と関係を持っていたこともあります。父親からの暴力にさらされて育ちました。母は幼いころに失踪して、行方は今もわかりません。生い立ちに同情すべき点は確かにあります。
 そういったNですから、物事の解決に暴力を頼むところがあります。ぼくが必要以上にNに強く当たるのは躾です。そう理解してください。よろしいですか」
 山川は最後まで慇懃な態度を崩さなかった。山川は、職員をときに〈お前〉呼ばわりするような、まったく今どきではない所長だった。その山川が妙に丁寧に説明をした。それは形を変えた脅しだと彼女は考えた。
「Nのことについては、余計なことを言うな」
 慇懃な言葉の裏で、山川はそう言っているように思われた。
「はい」 
 彼女は答えた。その返事はあまりにも短く、山川所長は少し戸惑うような様子を見せた。彼女の態度が、あまりに変化に乏しかったからだろう。彼女は山川を、少しも恐れていなかった。だから短い返事で済ませることができた。表情を変えることもなかった。
「私が言ったことをご理解いただけましたか」
 山川は言った。
「はい」
 彼女は答えた。やはり、何の感情もまじえない声だった。
「もう行っていいですか」
 彼女は言った。
「どうぞ」
 山川は答えた。
 彼女は面談室を出た。彼女にとって山川の言ったことは、たんなる言い訳に過ぎなかった。Nさんが難しい利用者であることは自明のことだった。山川は躾という言葉を使ったが、それは要するに力でNさんを抑え込むということだった。力を使わなければならないような利用者を受け入れてはいけない。たとえ他に受け入れる場所がなくても、自分たちの力を超えるものには、何事であれ対応できないのだ。
 帰り道、彼女はNさんのことを考え、そして息子のことを考えていた。Nさんと息子はどこか似ているように思えた。
 あのときの山川のやり取りを思い出すとき、彼女は心の奥底で、何かが動くのを感じる。今も感じている。虐待を目撃しても、何も感じないはずのわたしが、何かを感じる。遠くにあったあの感情が、思っていたほど遠くにないのではないか。ふとそんなことを感じるのだった。
 そのときの彼女はまだ気づいていなかったが、彼女の感じている何かは、怒りだった。
 
 Nさんが社会福祉法人慈光会の入所施設清光{せいこう}から消えたのは、所長の山川が、強い口調で叱責をした二日後のことだった。その日、彼女は公休日だった。
 夜勤者も気づかないうちに、Nさんは姿を消していた。
 Nさんの姿が施設から消えていることに、最初に気づいたのは午前五時、夜勤者が入居者の安否確認を行う最後の時間だった。職員はNさんの部屋の引き戸をそっと開けて中を覗いた。部屋にNさんの姿はなかった。しかしそのときは職員も、まさかNさんがいなくなったとは考えなかった。トイレにでも行っているのだろうと思ったという。朝の五時といえば起床支援が本格的に始まる直前の時刻だった。Nさんに限ったことではなく、入居者の姿が居室にない程度のことで、いちいち探している余裕はなかった。清光の建物は、どこも厳重に施錠されていて、外に出ることは、鍵を持っていない限り不可能だった。開口部がほとんど開かないこともあり、排泄物の匂いや体臭、口臭がこもって、異様な臭気が抜けず困っているほどなのだ。職員は起床支援の忙しさに紛れて、Nさんのことは忘れ去られてしまった。Nさんは自立性が高いこともあり、一番遅くに自分で起きてくることが普通になっていたことも発見が遅れた理由のひとつだった。Nさんが起きてくるのは、いつも六時半から七時の間だった。
 やがて、時刻は六時半になった。だが、Nさんは現れなかった。それでも、そのとき居合わせた職員は、Nさんはまだ眠っているのだろうくらいに考えていた。そして、時刻は七時を過ぎた。そうなるとさすがに職員も、Nさんはどうしたのかと思いはじめた。六時半にやってきた早番職員が、Nさんの部屋に様子を見に行った。Nさんは不在だった。そのころになって、職員たちはようやくおかしいと考え始めた。起床支援はひと段落していたが、まだ朝食が待っていた。だが、それどころではなかった。手分けをして施設内を探したが、やはりNさんの姿はどこにもなかった。
 時刻は七時を十五分以上過ぎていた。
 所長の山川に連絡が行ったのは七時二十分だった。電話を受けた山川は朝食を食べ終えたところだった。業務用に使っているスマホに連絡があり、
「Nさんの姿が見えません」
 と、職員の緊張した声が言った。山川には、利用者が簡単に施設から出て行けるはずがないという頭があった。それはNさんでも同じことだった。
「ちゃんと探したのか」
「探しました。本当にいないんです」
「そんな馬鹿な話があるか。全部鍵がかかっているんだぞ。どこかに隠れているに決まっている。夜勤者は誰だ」
 山川は叱りつけた。職員は電話を通してもわかる怯えた声で、その日の夜勤者の名前をあげた。その中に、吉田の名前を聞いたとき、山川の心を、ふと暗い影がよぎった。嫌な予感とでもいうのだろうか。あの吉田が夜勤だったのか? Nさんに殴られたあの吉田が。
「とにかくすぐに行く」
 山川は朝食の後片付けもせずに職場に向かった。家を出る前に、主任のひとりに連絡をした。状況を伝え、他の主任にもすぐに連絡をして、集まるように伝えろと命じた。
 山川は一人暮らしだった。妻は半年前、娘を連れて出て行った。
 清光についた山川は、まず夜勤者たちを呼び出した。主任たちはまだ到着していなかったが、到着次第現場に入るようにという指示も出してあった。
「Nは見つかったのか」
 山川は訊いた。
「いえ、見つかりません」
 夜勤者のひとりが答えた。怯えた声だった。
「馬鹿者!」
 山川の壁を揺るがすような一喝が事務所に響いた。その一声で、夜勤者の女性職員が泣き出した。
「吉田、お前何も知らないのか」
「いえ、あの」
 吉田はしどろもどろになりながら、
「その」
 と、繰り返すだけで、さっぱり要領をえなかった。
「なんだ! ちゃんと答えろ!」
「はい、何も知りません」
 山川は本気で吉田を殴りたくなった。だがかろうじて抑えた。拳を握りしめてぶるぶると震えている山川の姿を見て、吉田は本気で怯えた。吉田は、本気で山川に殴られると思ったと、後に話している。夜勤者に話しを聞いても、手がかりになるようなことは得られなかった。山川は吉田を残し、全員を現場に回し、入れ替わりにすでに到着し、現場支援に入っていた主任たちを呼んだ。吉田には事務所で待機するように伝え、やってきた主任たちと面談室で対応策について検討した。
 誰であれ、利用者のひとりが消えるということは大変な出来事だった。障害者が施設から消えるということは、あらゆる事態が考えらえた。事故にあうこと、犯罪に巻き込まれること、自ら罪を犯してしまうこと。Nさんの場合は、特に最後の可能性が高いことを、その場に集まった者たちは皆知っていた。最大級の緊急事態が起きていた。本来であれば、何を差し置いてもすぐに法人に報告をしなければならなかった。主任の中には、その点について山川に進言した者もいた。山川が対策について話し合うと言ったときのことだ。主任の一人が、
「その前に理事長に報告するべきではないでしょうか」
 山川は考えるような顔をした。古参職員でもある、その男性主任の言うことは正しかった。本来であれば、山川に連絡があった時点で、法人最高責任者である理事長に連絡をしなければならなかった。しかし、山川はそれをしなかった。職員から利用者のNさんの姿が見えないという報告があったその時点で、するべき報告をしなかったということが、山川の本心を余すところなく語っていた。山川は理事長に報告する気がなかった。
 山川は、それでもしばらく考えるふうを装い、
「いや、まだだ」
 と、言った。すでに決めていたことだったが、簡単に言ってしまったのでは最初から決めていたと思われかねない。山川はそれを嫌ったのだった。集まった主任たちの間に微妙な空気が流れた。本当に、それでいいのか。そんな主任たちの思いが、気配となって、山川に伝わっていた。山川は主任たちの思いを無視した。
 山川は一種の賭けをしようとしていた。今日一日だと山川は考えていた。今日一日だ。今日一日、Nを探して、どうしても見つからなければ、そのときは理事長に報告しよう。山川は自分の立場を理解しているつもりでいた。理事長はおれの手腕を高く評価してくれている。だから、一日くらい大丈夫だろう。あとで、
「報告が遅れて申し訳ありませんでした。行く先に心当たりがあったものですから、そこを探して連れ戻しました。Nの自立性の高さを考えて、事故にあうことはないだろうと思いました。それよりも、法人全体の信用を落とすことの方を避けたいと思い、今回、このような対応させて頂きました」
 そういえば理事長は必ず理解してくれる。山川はそれを信じた。そうすることで、この失態は最小限に食い止められるはずだった。
「夜勤者はまだ返していないな」
 山川は言った。
「はい」
 古参職員の主任が答えた。
「いいか、職員には箝口令を敷け。絶対に外で喋るなと言え。きつく言うんだ」
 即答できた主任はいなかった。
「いいな」
 山川は言った。
「わかりました」
 主任たちは答えた。小さな声だった。
「それから遠野職員を呼べ」
「遠野さんを? なぜですか?」
「いいから呼べ」
「わかりました」
 
 職場から彼女のところに電話があった。相手は、牧野結花という三十歳になったばかりの女性主任だった。
「はい、何でしょう」
「お休みのところすみません」
「いえ、かまいません」
「あの、ほんとうに申し訳ないのですが、いまから職場に来ていただくことはできますか」
「ええ、かまいませんが、何かありましたか」
 このとき、なぜかわからないのだが、彼女の頭にはNのことが浮かんだ。
「来ていただけるんですね」
「はい、もちろんです」
「ありがとうございます。詳しいことはこちらに来ていただいてからお話しさせていただきます」
「わかりました」
 彼女は出かける準備をはじめた。
 清光につくと、面談室に通された。そこは利用者の保護者や外来者との話し合いに使われたり、幹部職員の打ち合わせに使われたりしていた。
 面談室では山川が険しい表情で彼女を待っていた。
「何でしょうか」
 彼女は訊ねた。
「うん」
 山川は頷いたが、すぐに話しはじめようとしなかった。その部屋にいたのは、山川と古参職員の主任、そして彼女に電話をかけてきた牧野主任だった。
「実は、Nがいなくなった」
 山川は言った。
「そうですか」
 彼女は答えた。
「まだ、内密にしてあります。知っているのは、一部の清光職員だけです」
 山川は言った。目のあたりに険しいものを浮かべていた。陰険な眼差しで彼女を見て、
「驚かないですね」
 と、言った。
「驚きません」
「どうして驚かないんですか」
「Nさんは、ここで暮らすことを嫌がっていました。チャンスがあれば出て行くと思っていました」
「じゃあ、前からその可能性があるとお考えだったんですか」
「出られる場所があれば出て行くとは思っていました。わたしだけじゃなく、皆そう思っていたんじゃないでしょうか。
 ただ、物理的にここから出ることは、非常に難しいと思います。どうやって、Nさんはここを出たんでしょうか」
「まだわかりません」
「そうですか」
「Nはここを出られれば出て行く。確かにそれはその通りなんですが、そのことをどう思いますか」
「どういう意味でしょう?」
「遠野さんはNが出ていくことができれば出て行くと考えていた。Nが出て行くことをどうお考えですか。ほんとうにそれでいいとお考えですか」
「いま、それを話すことは必要でしょうか」
「必要か必要でないかは、ぼくが判断します」
「そうですか。それなら、申し上げます。
 Nさんがここを出て行きたいと考えることは、とても自然なことだと思います。そうじゃないですか? 人が自由を求めるのは自然なことです。Nさんが自由を求めることに、何の不思議もありません」
「それは、そうだけれど、だからといってNは外の世界で暮らしていくことはできないんだから、ここで生きて行くしかないでしょう」
「Nさんにそれが理解できますか。理解できないものは受け入れることができません。誰だってそうです。誰にでも受け入れられないものがあります」
「これは受け入れるかどうかの問題ではないでしょう。Nが何を思おうと、そうせざるを得ないという話です。我々だって、必ずしも納得できることばかりを受け入れているわけじゃない。皆我慢して生きている」
「その通りです。しかし、Nさんは我慢ができない人です。少なくとも、わたしたちのような我慢はできない人です」
「我慢ができなくても、外の世界で生きて行くことができないなら、それに従うしかない。従えないというのなら、ここを出て行くか、強制的に従わせるか、どちらかということになる。
 しかし、外の世界に出せば、Nは生きるために犯罪を行なうでしょう。それは誰にとっても、N自身にとっても不幸な話だ。だったら、強制的であっても、従わされる方が、まだましです。外で犯罪者として生きるのは不幸だし、事故に巻き込まれて死ぬのはもっと不幸だ。そう思いませんか。ここにいれば、たとえそれが強制的なものであっても、不幸にはならない。幸福ではないかもしれませんが」
「所長のおっしゃることはすべて正しいと思います。しかしいくら正しくても、納得できないことがあります。人は、ときに愚かに生きることを求める場合があります。行く先に不幸しか待っていないとわかっていても突き進む場合があります。どうして、障害者と言われる人たちには、それが許されないのでしょう」
「本人が望むなら、不幸になってもいいというんですか、あなたは」
「結果としてそうなっても仕方がない場合もあると思います。彼らもひとりの人間だということです。結果を気にするあまり、わたしたちは可能性の芽を摘み取ってはいませんか。
 Nさんがここを出て行けば不幸になるというのは、可能性の問題でしかありません。わたしたちにしたところで明日のことはわかりませんから。絶対にうまく行く未来は誰にとっても約束されていない。だったら希望を持ってもいいのではないでしょうか。失敗はあるかもしれませんが、その失敗をカバーするのが、わたしたち本来の仕事であるような気がします」
「それは極論だな。そういう極端な理屈を、ぼくは認めることができない」
「それはそれぞれの考え方ですから。ですが、障害者の権利を認める、権利を擁護するという考え方の中には、その人たちが持っているリスクも当然受けいれることがふくまれているとわたしは思います。
 もし、それができないというのであれば、それは障害者を、わたしたちとは違う人たちとして見ていることになると思いますが」
「我々が利用者を差別していると言っているように聞こえますが」
「率直に申し上げます。差別していませんか? わたしたちは彼らを、わたしたちと同じように扱っていますか?」
「扱っていますよ、もちろんです。どこが同じように扱っていないのか」
「彼らはなぜ鍵のかかる建物に閉じ込められているんでしょう。わたしたちは自分で開けることができない家に暮らしていますか? 夜ふと思いついて、家を出たとして、これほどの騒ぎになりますか? 彼らと我々が本当に同じと言えるのでしょうか?
 地域で暮らすことができないから施設で暮らしているという理由付けは、健常者側の理屈です。そもそも彼らは自分を障害者だとは思っていないと思います。わたしたちが勝手に、彼らに障害者という名前を付け、特殊な者として扱っているだけなのではないでしょうか。彼らが施錠されて、自由に外に出て行くこともできない建物の中で暮らさなければならない理由を、わたしは彼らに説明することができません。所長はできますか?
 障害があるから自由に暮らせないのは、たったいまの現実ではあっても、あるべき姿ではないとわたしは考えています。わたしたちは、彼らを特別な者、あえていえば一般社会では暮らしていけないものとして扱っています。それはわたしたちの論理であって、彼らの論理ではないように思います」
 山川の表情が変わり、言葉にぐっと詰まったように見えた。差別していると彼女に言われたとき、山川は確かに怒っていた。怒鳴りつけたい気持ちを懸命に抑えていることは、誰にでもわかった。しかし、いま怒りは継続しているものの、彼女のいったことの正当性を認めないわけにはいかなくなっていた。社会は障害者を特別視している。それは現実としてあった。山川は長く施設にいて、肝心なところを見失っていた。
「それは理想論だ。そうあるべきだとは思っても、それができるとは限らない」
「そうですね、理想論です。ですが理想論を忘れてただ現実だけに拘泥すれば、きっとわたしたちは一番大切なものを見失うような気がします。たとえば施設は絶対に必要であるとか、要するにそういうことです。
 施設は絶対に必要なものでしょうか。社会資源がもっと整っていれば、たとえば防衛費と称する戦争に割く費用の一部でも回してくれれば、障害者は今よりも自由に、地域社会で暮らすことができるかもしれません。障害者という言葉を使わなくてもいいかもしれません」
 山川はすぐに反論はしなかった。彼女を睨みつけていたが、怒りの言葉は出てこなかった。しばらく沈黙した後、低い声で、
「ぼくは現実の中で生きていますから」
 と、言った。彼女は小さく頷き、
「人はそれぞれですから。わたしにはわたしの福祉観があります。法人には法人の、山川所長には山川所長の福祉観があります。どれが正しいのかはわかりません。ただわたしの考え方と、それは違うかもしれませんが、わたしはここで働いて、給料をもらっています。だからここの考えに従います。
 で、わたしは今日、何をすればいいのですか? なぜ、わたしは呼ばれたのでしょうか?」
 山川はすぐに返事をしなかった。心を静めているのだろう。内心で燃えている怒りの炎が、その目を通して見ることができた。彼女は、山川の怒りを平然と受け止めることができた。何も恐れていなかった。死のうと思った彼女だった。今も心のどこかに死は棲みついていた。死を身近に感じる者に、恐れるものは少なかった。あるいは皆無だった。
 そのまま、しばらく沈黙が続いた。
「Nを探す手伝いをしていただきたい」
 山川は言った。
「Nさんの行く先に、心あたりはありませんが」
「行く先に心当たりはなくても、もし見つかったとき、遠野さんならNを説得できるのではないかと思います。
 よく、Nと話しをしていましたね。先日も話していたでしょう」
 彼女は即答しなかった。しばしの沈黙を挟んで、
「業務命令ということで対応させていただきますが、Nさんに会えるかどうかはわかりません。それに、仮に出会えたとして、説得はしてみますが、うまくいくとは思えません。それでもよろしいですか」
「とにかくやってみてください」
「わかりました」
「Nには姉がいます。身元引受人です。いろいろと問題のある人物ですが、それでもただひとりの肉親です。父親が蒸発した後、一時期二人だけで暮らしていたはずです。もしかするとNは姉のところに行っているかもしれません。そこに行ってみてください。牧野主任と一緒です。よろしくお願いします」
「わかりました」
 彼女は言った。それから、牧野主任に、
「よろしくお願いします」
 と、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 牧野主任も頭を下げた。彼女は山川所長に向き直り、
「しかし、今日は平日ですが、お姉さんはいらっしゃるのでしょうか?」
「先ほど電話をして確認しました。今日は休みだそうです。
 ちなみにNの姉は同業者です。もっとも向こうは介護保険です。T市内の特養に勤務しています」
「この件は、まだ内密にしていると伺いましたが」
「内密というのは人聞きが悪いな。状況を見極めているだけです。状況がはっきりすれば、すぐに理事長に報告するという意味ですから。その点誤解なさらないように」
「Nさんの姉さんはこの件を漏らしませんか」
「それはありません。大丈夫です。それこそ内密にするように伝えましたから。
 心配はいりません。絶対に大丈夫です。Nの姉には、この件が外に漏れれば、Nに施設を出てもらうと伝えました。だから、絶対に漏らすことはありません。Nが戻れば生活は成り立たなくなる。姉はそのことを良く知っていますから、誰にも喋らないはずです。
 それともうひとつ。もしNが立ち寄れば、そのまま引き止めて、我々に連絡するようにとも言ってあります。姉は従うでしょう」
 彼女は無表情に山川を眺め、しばらくしてから、
「わかりました」
 と、言った。

 山川は要するにNさんの姉を脅したのだ。どんな理屈をつけようとも、山川はNさんの姉を恫喝したという事実以上のものは、そこになかった。
 彼女の胸のどこかに、鈍い痛みのような、山川に対する怒りがあった。息子が死んで以来、彼女の感覚はおかしくなっていた。感情の配線、というようなものがあれば、その配線がどこかで断線してしまったかのように、喜怒哀楽、人間の感情のいずれも感じなくなっていた。そんな時期が長く続いた。最近になってようやくのことに、悲しみの感情を伝える配線がつながったらしく、それが新幹線での号泣となって現れた。だが、他の配線はいまだに修復されていないようだった。
 しかし、山川への怒りがいつの間にか、彼女の胸中に生まれていた。それはNさんへの虐待に対するものだった。そして今日だ。重大事故を隠蔽し、Nさんの姉を恫喝したそのやり口。すべては山川の保身から出たことだった。彼女は山川への怒りをはっきりと感じていた。怒るという感覚を自覚するのは、いったい何年ぶりだったろう。山川は職員に利用者の権利について、いつもうるさく言っていた。いまやっていることは利用者の権利を擁護することとは真逆のことだった。常日頃、山川が自己保身を剥き出しにしていれば、それはそれで納得できたかもしれない。しかしいつも利用者の権利や人権擁護について熱っぽく語っている者が、自己保身を剥き出しにするのは、非常に醜かった。福祉の世界に美しいものなどないことを知っている彼女だったが、それにしても山川のやり方は限度を超えていた。
「さっきすごかったです」
 牧野主任は言った。公用車を運転していた。彼女は助手席にいた。
「何のことですか」
 彼女は訊いた。
「Nさんのことで、所長に堂々と反論しました。あんなこと、わたしたちにはできません」
「別に反論したわけじゃないですよ。思ったことを言っただけです」
「それができないんです」
 できない理由はわかっていた。思ったことは主張すべきだとも言わなかった。言ったところで、できないことはわかっていた。彼女は慈光会を改革するために来たわけではなかった。では、何のために来たのか? 少し前までは答えることができたような気がする。死ぬための時間稼ぎ。果たしてどこまで自死を本気で考えていたのか、それはわからないにしても、いまここにいることは時間稼ぎ以上の意味を持たなかった。そのころなら、どれほど醜悪な人間の裏の顔を見せられても、何も感じなかっただろう。しかし、今はそうではなかった。
 遠野さん。
 遠いところで声が聞こえたような気がした。
「遠野さん」
 今度は間近で聞こえた。はっとした。わたしの名前。彼女は牧野主任を見て、
「はい」
 と、答えた。
「どうかされましたか」
「いえ、別に」
「Nさん見つかると思いますか」
「さあ、わかりません」
 彼女は答えているのが自分ではないような気がした。遠野。わたしの名前。最近よく名前を呼ばれるような気がする。もちろん、そんなことはない。名前は、日常的によばれている。それでも、その名前は、まるで見知らぬ誰かの名前のように、彼女の肉体にしっかりと馴染んでいなかった。その名前は長い間、彼女を離れ、遠くを彷徨っていた。そんな気がするほど、自分の名前に、他人行儀なよそよそしさを感じていた。
 遠野。彼女は心中でその名を反芻した。他人の名前のように感じるというのは、自分自身に対する無関心だった。それがいまは、名前を呼ばれて違和感を覚える。やはり、わたしのなかで何かが変わり始めていると彼女は思った。そう思わざるをえなかった。
「Nさん、どうやって施設を抜け出したと思います」
 牧野主任は訊いた。
「さあ、わたしにはわかりません」
「普通なら絶対に無理です。施設はどこも厳重に施錠されています。鍵を持っているのは職員だけなんですよ。普通に考えれば、職員が手助けをしない限り不可能です。でも、そんなことをする職員はいません」
「本当にそうでしょうか」
「え?」
「いえ、別に」
「職員が手助けをしたと考えておられるんですか」
「どんな可能性でもいまは考えた方がいいと思っただけです」
「それ、でももし事実だったら、大変なことですよ。解雇されてもおかしくない行為です。まさか、しないですよね」
「普通はしませんね。でも、人間ってわからないから」
「いやそれは」
「牧野主任は、Nさんがどうして施設から逃げ出したと思いますか?」
「え?」
「どうしてだと思います」
「それは」
「でも大切なことですよ。でないと、今回無事に戻ってもまた抜け出すと思います」
「そうですけど。
 遠野さんが山川所長に言われたように、自由になりたかったんじゃないでしょうか」
 彼女は牧野主任が誤魔化していると思った。牧野主任も本当のことは知っているはずだ。
「Nさんがいなくなる二日前でした。山川所長がふたりの男性職員を連れて。やってきてNさんに厳しく注意しているところを見ました。
 あれは注意というよりも、もっと激しいもの、虐待と言われても仕方のないものでした。そのとき山川所長はNさんに、ここを出て行ってもらう。職員を殴ったことを警察に知られれば、刑務所に行くことになる。そんなことを言っていましたね。はっきりとそういったわけではありませんが、Nさんは刑務所に戻ることをとても恐れていました」
「その話、やめませんか」
 牧野主任は言った。彼女は牧野主任を見た。牧野主任は車を運転している関係で、正面を見ていた。彼女は横顔を見せていた。しばらく牧野主任の横顔を眺めたあと、
「そうですか、ではやめましょう」
「ごめんなさい」
「何謝ることはありません。したくない話もあります」
 牧野主任は少し待って、
「臆病なんです、わたし。気が小さい。本心を知られることが怖いんです。
 ほんと、自分でも嫌になるくらい臆病で、いつもびくびくしています。周りの顔色ばかり窺っている。上の人にも下の人にも嫌われているんじゃないかって。嫌われる勇気とかいうのもあるらしいけれど、そんな勇気、わたしは絶対にもてません。
 そもそも、そんなに自分が優れた人間だとは思ってないですから。
 変でしょう。ちょっと病んでますよね。何を恐れるのかって思われるかもしれませんけれど、でも慈光会って、凄く残酷なところがあるんですよ。職員に対して。
所長のやり方に逆らったりすると、事業所にいられなくなります。ほんとのことです。これまで何人も所長に逆らった人を見てきました。ほとんどの人が異動させられてます。ただ移動させられるだけじゃありません。その人には絶対に合わないような事業所に異動させられて、結局、退職に追い込まれる。これまで何人もそういう人を見てきましたから。そうなるのが怖いんです。
 主任としての力がないことはわかっています。でも、主任にすると言われたとき、断ることはできませんでした。断れば、それはそれでどこかに異動させられるかもしれないと思って、怖かった。本当は普通に、目立たず働いていたかったんですけど、主任なんかにされちゃって、どうしようかと思ってます」 
 牧野主任が山川のやり方を嫌っていることはわかっていた。正面切ってそれをいう勇気がないことも。勇気がないことは恥じることではなかった。勇気を持てないから、生きている資格がないということではない。臆病であることの方が、実は自然なのだと彼女は思っていた。
 問題は、牧野主任に勇気がないことではなく、その発言に、利用者に対する責任に言及した部分がなかったことだ。彼女は牧野主任の気持ちを理解しつつも、苛立ちを覚えた。
 あなたは利用者の権利の代弁者でしょう。そう詰りたくなった。もちろん、そんなことはしない。そんなことをしても無意味だとわかっていたからだ。仮にわたしが叱りつけてみたところで、何も変わらない。牧野主任のような職員は、福祉職場には無数にいる。前の職場で嫌になるほど見てきた。わたし自身の場合は臆病ではなかったと思うが、やったことは同じことだった。見て見ぬふりをした。利用者がどんなにひどい虐待を受けていても、何も感じず、何も言わなかった。
 あれ? なんか変だ。
彼女はそう考えて、ふと立ち止まった。前の職場でもさんざん見てきた光景。なのに、あの時は怒りを感じなかった。いまはかすかながら怒りを感じている自分がいる。彼女は戸惑いを覚えた。自分の中で、確かに、何かが変わろうとしている。そんな気がした。
 まあいいだろう。福祉の現場はどこでも同じだ。この業界をそとから眺めている人たちは、福祉を職業に選ぶ人は、優しい人たち、もしかしたらそんなふうに考えているのかもしれない。その優しいの中には、〈とろい〉という意味も含まれているのかもしれないが、どちらにしても間違いだ。福祉業界に、優しい人間はいない。〈とろい〉人間はいるかもしれないが、それにしたって無垢な愚か者ではない。真逆だ。さっきまで笑顔で話していた連中が背中を向けたとたんに悪口を言う、そういう世界だ。あるいは、底意地悪く、相手の失敗をほじくり返し、嫌いな奴の失敗は、話を盛って上司に報告する。いるのはそういう連中だった。臆病で、臆病であるがゆえに小狡く、小賢しく、人の足を引っ張ることばかり考えている。利用者のことを考えている職員などいない。いるかもしれないが、広大な福祉という浜辺の中の、たったひとつの砂粒のようなものだった。そして、一般社会にいる人間よりも、障害者に対する差別意識の強い人間たちだった。
 世間は障害者を差別する。わたしは差別しないと言っている奴は嘘つきだ。しかし、外の世界と同じ差別が、福祉現場にはある。世間の人々が、障害を持った人たちを受け入れないように、あるいはそれ以上に、障害福祉の現場で働いている人間は、障害者を受けいれない。受け入れず、より激しく差別する。障害福祉の現場、特に障害者入所施設で働く職員ほど、差別感情が強い。現場で働く人間は、障害者を身近に知っている。知っているがゆえにそこに生まれる差別感情は、救いがなく陰湿で、陰惨だった。健常者と障害者が対等だなどという幻想を誰も信じている職員などいないのだ。
 彼女は自分の中に生まれた、怒りの感情を忘れようとした。別のことを考えようとした。心を、ここではない、違う場所に持って行こうとした。そうしなければ、今はまだ小さな怒りの炎が、やがて巨大な業火となって、自分自身を焼き尽くすかもしれないという不安があった。
 しかし、それはなかなか困難なことだった。彼女は様々なことを考えた。考え始めたとき、ふと動画サイトで偶然見つけた女性歌手のことを思い出した。名前も知らないその女性歌手は、しっかりとした声で、自分の故郷に帰ろうとする女性のことを歌っていた。その故郷は、決して郷愁を誘うような、長閑な場所ではなく、歌詞の内容から一種のスラムであるように、彼女には思えた。スラムを出て、生活をはじめたが、結局うまく行かず。またスラムに戻っていこうとしている女性。後に、その歌は英国の高名なロック歌手が歌った歌だと知った。本人が裏町の空き地のようなところで、アカペラでその歌を歌っている動画も見た。だからあの歌詞の主人公は〈わたし〉ではなく〈おれ〉なのだろう。しかし、彼女はその女性歌手が歌うその曲が好きだった。

 聞いたときは何も思わなかった。しかし、湧きあがってきた叫びたい気持ちを逸らすために、思い出したあれやこれや、そのなかにあった『ガソリンアレイ』。彼女の中でその曲とNさんが重なった。そして息子とも重なった。息子も、たぶんどこに行ってもうまく行かなかっただろう。いまの日本で、障害者が本当の意味で、自分らしく生きることができる場所などないのだ。悲劇は、生きていける場所がないだけではない。『ガソリンアレイ』の主人公には、路地とはいえ帰る場所があった。息子にもNさんにも帰る場所すらない。彼女の胸に、怒りの感情と同時に悲哀が生まれていた。彼女は自分自身に戸惑うしかなかった。


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