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私小説 弱者に向かう怒り

 いったいどこからが虐待になるのか。そう質問をした障害者施設の職員がいた。その職員は、障害者支援において、それが虐待にならないのなら、そこまでは行ってもいいと考えているわけだ。発言を聞いたわたしにはそう思えた。
 たとえば、障害者を物理的な力を使って抑え込めば虐待だが、薬を使って動けなくするのはかまわないのなら、そこまでは行く。薬はだめかもしれないが、威圧的な態度で障害者の行動を抑制することがかまわないのなら、そこまではやれる。威圧的な言葉は、さすがにあれなら、敬語を使って障害者の要求を拒否することは許される。
 つまりそういうことを考えていることになる。その職員の考えの中に、何らかの形で、障害者の行動を抑制し、場合によっては制圧することは、仕方のないこと、そういう考えがある。
 この私小説においてわたしは現実を書こうと考えている。現実そのものではないが、わたしの体験を小説の形で表現しようと考えている。
 障害者施設の現実をわたしは書こうとしている。それはわたしの知っている範囲の現実かもしれないが、障害者施設において障害者への行動抑制は日常的に行われている。そう考えてもらってもかまわない。
 そうしなければ、とても支援ができない。そう考える職員は多い。そう考えない職員は少数派だ。双方が論争すれば、前者が勝利するだろう。行動抑制を伴わない支援は可能だと考える職員は、理想家ではあっても現実を見ていない。あるいは別の理由があって、理想論を振り回しているのだろう。
 障害者、特に強度行動障害の障害者は、人として生きる権利に制限をかけなければ、支援などできない。障害者施設における現実の中で、それは真実として存在する。障害者施設の現実に直面したとき、わたしは障害福祉の現場を離れた。
 どこまでが虐待なのかと考えることは、そもそも間違っている。虐待と虐待ではないことの線引きなど存在しない。つまりわたしたちは常に虐待、もしくは権利侵害を行なう、あるいはすでに行なっている可能性を持って支援している。いったいどこからが虐待になるのか。それは個別の状況によって判断される。
 たとえば明らかに命にかかわるような危険行為をしている障害者がいれば、力づくでも止めなければならない。しかし、わたしのいうことをきかないから腹を立てて投げ飛ばしたとすればそれは虐待だ。ようするに同じこと、同じ内容の行為であっても、状況によって変わってくるのだ。その判断は、自分たちではできない。第三者の判断に委ねなければ、正しい判断はできない。しかし、この判断は自分たちで行うことがほとんどだ。虐待発見時の通報義務が実行されることは全体の中で少数だ。ほとんどの虐待は隠蔽される。
 確かなことは、障害者施設の職員は、自分の行為行動が虐待にあたる可能性を意識して仕事をしているということだ。薄氷を踏むような思いで仕事をしなければならないということだ。あくまでもしなければならないであって、しているということではない。
 何かあれば、不適切支援だ、虐待だと言われることは皆承知している。それでも、仕事としてそれをせざるを得ない。職員が人権について考えたことがないと言われればその通りかもしれない。しかしゆっくりと人権、障害者の権利について、考えているような余裕はない。何かが起きて、対応する。その対応が権利侵害だ、虐待だと言われる不安を皆抱えて仕事をしている。職員は時に激しい行動をする利用者と自分たちの行動を常に監視している上司の意地の悪い視線にさらされて仕事をしているのである。ストレスがかからないわけがない。
 だから、職員の想いは、慈愛よりも怒りが勝っている。
 その怒りは当然弱いところに向かう。怒りは障害者に向かい、そして虐待が起きる。

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