なぜ、小説を書かなかったのか?
最初、今回は「小説を書きはじめる理由」を書こうと思っていました。でも、先に「なんで私はこれまで小説を書こうとしなかったのか」、考えてみようと思います。こちらの方が、少し前から、胸にひっかかっているからです。
私は昔から物語が好きな子供でした。かなりの長い間、私にとって、本といえば、小説や物語でした。大学の授業で、さまざまな新書や専門書を読むことになって、「そうか、世の中には、小説以外にもこんなにいろんな本があるんだな」と驚いたくらいです。
今も、私は小説がとてもとても好きです。でも、自分では書かなかった。その理由はたくさん思いつくのですが、そのひとつが、「読むことでせいいっぱいだった」からということ。
世の中にはたくさんおもしろい物語があって、私はそれを読むのに夢中でした。書店や図書館に行くたび、本棚に詰め込まれたたくさんの本たちを眺めて感じるのは、「一生をかけても読みたいもの全てを読むことはできない」という絶望とよろこび。読みたいものを読みこなすのだってままならない私は、書く側にまわろうなんて、なかなか思いつかなかったんです。
でも、「書きたい」という動機が、そんなに単純なものではないことを、今は知っています。時が経ち、私の経験や感情や思考が、自分自身の器からあふれてしまった時、私ははじめて「書きたい」と思いました。
その時にだって、読みたいものはいっぱいあって、私は自分の心の「読みたいものリスト」を苦々しく横目で見ながら、あふれるものを書きとめはじめました。たくさんたくさん、書きました。でも、それが「小説」というかたちをとることはありませんでした。なんでなんだろう?
たぶん、これが一番大きな理由ですが、「小説」を書くのって、すごく面倒くさいことじゃないですか? 私が私として何かを書く時、私と私が感じるもの以外に必要なものはありません。でも小説はそうじゃない。複数の登場人物がいて、そこに会話や感情や関係が生まれて、他にも、住む街があって、見上げる空があって、なんなら住まない街も見上げない空もあるわけですよね? それって「世界」をつくることじゃないですか? そんな神様みたいなことをするの? 神様だって7日目には疲れて休んじゃったようなことを、するの? 私は、いいや。そんな面倒なことしなくても、書くことたくさんあるし。
当時、若さとか恋愛とか悩みだとかに事欠かなかった私は、そう思っていたんだと思います。「物語」という形態を使わないと表現できないものが、自分の中にあるとは思えなかった。私は「私」をただ叫べばいいと、そう思っていました。
もうひとつ、ひそかに大きいのが「モテなさそう」だということ。まだ、しょこたんも「アメトーク」の読書芸人も星野源もいない時代、文化系っぽい雰囲気を醸し出してしまうことは、モテ的に“死”を意味していました。
私は、毎日のように図書館に通っていることは絶対に誰にも言わなかったし、だから学校の図書室ではなく地元から少し離れた図書館を利用していたし、小説を買う時にはエロ本を買う男子中学生のようにノンノとプチセブンの間にはさんで買ったし、高3の受験期になって「あさきゆめみし」がクラスで流行した時も「なにそれ?」みたいな顔をしていました。「源氏物語」大好き、朧月夜が一番好きなんて、もちろん言わない。
そんな風に、自分から文化系っぽさが出てしまわないよう必死に日々を送る私にとって、「小説を書く」なんて、自殺行為。読むことをやめることはどうしたってできないけど、それ以上、自分から文学の薫りをにじませる危険を冒すなんてできなかったのです。
まとめてしまえば、私が小説を書かなかった大きな理由は、「読むことの方が大事だった」「めんどくさかった」「モテたかった」というわけになるみたい。なんだか、あんまりステキなものじゃなくて自分でもちょっとがっかりしていますが、これから小説を書き進めるにあたり、私の中にあったハードルをクリアにしておきたいと思ってしたことですので、すっきりしました。
次回は「小説を書く理由」を書くつもりですが、要は、この「書かなかった理由」のいくつかが覆ったからなので、書くまでもないのかもしれません。
でも書きますので、よかったら読んでいただければ。
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こちらのnoteは、創作記録「小説、できるかな?」の記事です。このマガジンでは、小説創作の過程で感じたこと考えたことを記録していきます。作品は育児メディア「コノビー」にて連載予定。スタートしたら、ぜひ読んでいただけると嬉しいです!
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