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なぜ、小説を書くのか?

今までたくさんの文章を書いてきたけれど、小説を書くことはなかった私が、「小説を書きたい」と思った直接のきっかけは、コノビー編集長・渡辺さんとの出会いです。渡辺さんがどんな風に素晴らしい編集者で、どんな風に私にきっかけをくれたのかは、また改めて語るとして、今回は、もう少し私の奥底で見つかった理由について書きたいと思います。

私が一番自然に書ける文章は、今までnoteに書いてきたようなエッセイです。でも、「エッセイ」と言ってはいるものの、本当は、私のイメージする「エッセイ」とはちょっとちがいます。私の書くものは、それよりも、だいぶ個人的だし、感情的だし、ひらかれていないし、言葉も感覚的です。胸を張って「エッセイ書いてます」と言うには、いろいろと過剰だという自覚はあるのですが、他に適当な名前も見つからないので、とりあえず懐の深そうな「エッセイ」という名前を使っているわけです。

そういうものを、月に何度かずつ書いてきて感じているのは、「結構、書けちゃうものなんだなあ」という、驚きまではいかない、軽い感心です。

たとえば、これまで誰にも心からの本心を言う機会のなかった、きれいなきれいな恋の記憶(この記事です)や、割りきれないままでいる性欲の話(これはこの記事)なんかも、書いてしまうと、意外と、表現できてしまうものなのだなあ、と。今まで考えても考えてもキリがなかったのに、文章にして誰かに受け取ってもらうと、なんだか憑き物が落ちたような気持ちになる。書かずに抱えている間は、あんなに途方もないものに感じていたものが、たかだか2000文字くらいのスペースにおさめられてしまう。それができてしまうんだ、という、自分と言葉に対する感心です。

このままいけば、私は、私の中にある残りの途方もないものも、いつの日か文章にしてしまうでしょう。もちろん、それで私の中の問題が解決するわけではありません。頻度や重圧は格段に少なくなりながらも、私はその後もその出来事を、感情を、反芻して生きていくでしょう。だけど、文章の上では、私は一度書いた出来事を、繰り返し繰り返し、ああでもないこうでもないとこねくりまわしたくはない。一度眺めた角度とは、なにか致命的に異なる視点を見つけられない限り、同じことを同じように繰り返しても仕方がないと思っています。

それでも、私の中の大問題を全て書き終えた後でも、たぶん、私は書き続けるとは思います。私の中の大きなカタマリではなく、日々の中で次々とあらわれる、ささいなもの、かろやかなもの、いろのうすいもの、あっという間に通り過ぎてしまうものたちを、すくい上げて書きとめていく。それはそれで、とても素敵なことだと思います。

だけど、私には、その前に書いてみたいものがあります。それは、たとえば、きれいなきれいな恋をしながらも、こびりついて消えない相手への憎悪だったり、どうしようもない性欲の向こう側にあったかもしれない透き通るような美しい何かについてだったり。私の中で、なんのエピソードも伴わないくせに、生々しくここにある感情や欲望。私と私の言葉だけでは、たどりつけないもの。そういうものを、「小説」という器を手にしたら、もしかしたら表現できるかもしれない。今より、もう少し、遠くまで行けるかもしれない。だったら、試してみたい。

「エッセイ」の懐が深い、と私は書きましたが、たぶん「小説」の懐の方がそれ以上に深い。そんな期待が、私が小説を書くことにした理由です。まず、私が「小説」の懐に入れるのか、そこまで行けるのかが問題ではあるけれど、がんばってみたいと思っています。


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