天使と笑い

かつて読んだ「その日の天使」という文章を、ふとした時に思い出す。八方塞がりというか、憂うつを何かで解消しようという気力すら無くなった時に。

その短文の作者である中島らもは、アルコール中毒を自認し妄想や幻覚のような奇妙な読後感のある小説を多く著していて「その日の天使」は彼の作品の中では異質な、恋愛に関するエッセイ集にあった。

どうにもならない現実に落ち込んで、生きるか死ぬかという瀬戸際の精神状態で街を歩いていた作者の耳に、飛び込んできた焼きいも屋の売り声。スピーカーから流れてくる、そのどこか間の抜けた響きに救われた、という話だった。

降って沸いたように救いは訪れることがあって、それはとても些細なことだったり、天使とは程遠い姿をしていたりするのだけれど、そのひとに与えられた「その日の天使」なのだと。


その日の天使は、いつどこから飛び込んでくるのかわからない。どんな姿をして、どんな方法で現れるのかも、私たちにはわからない。

それは、窓際で見下ろしている猫、すれ違うベビーカーで眠る赤ちゃん、エスカレーターで前に立っている学生や、乗った電車の隣で吊皮を手にしているサラリーマンかもしれない。

商店街で流れる歌謡曲や、平積みになった本の帯に書かれた言葉、通りを歩く誰かの会話の断片。

色付いてきた樹々の葉、高い空の青さ、積もり始めた雪の上の足跡、目の前を横切ってゆく鳥の影、目に染みるような花の色。

世界が毎日のように差し出している贈り物を、私が見ていない・聞いていないだけなのかもしれない。そう思って、あまりに落ち込んでいる時は敢えて外に出て、音楽を聴くイヤホンを外し街を眺めて歩く。天使を探す。


そうして生きていると「その日の天使」を体現しているようなひとに巡り会うこともある。

どんな状況の中でも笑いを見つけられるひと、というのか、ふとした笑いを一緒にいる者に、もたらすことのできるひと。他者の感情を感知する繊細さと、それを黙って受け止める強さ、ユーモアを生み出せる心の広さを持っている。

たぶん、そういうひとは、これまでの人生で天使の見つけ方が上手くなったひとなのだろう。つまり切実に笑いを必要とするような場面を多く体験し、痛みを伴う経験を積み重ねてきたということ。


「ベルリン天使の歌」というドイツ映画がある。昔観た好きな映画だ。

登場する二人の天使・カシエルとダミエルは、いずれもフロックコートを着たおじさんの姿をしていて、彼らは守護の天使としていつも人間に寄り添っている。

高いビルの上から今まさに飛び降りようとする青年にも、寄り添い話しかけ続けるカシエル。けれども青年に彼の姿は見えないし、話しかける声も聞こえない。死なない天使には人間の感覚を理解することができず、無力感を味わう。

カシエルと同様の思いを抱えてベルリンの街を見下ろしていたダミエルは、ある日、サーカスで空中ブランコに乗るマリオンに恋をする。それまでモノクロームだった彼の視界はカラーに変わってゆく。

彼女と共に人間として、限られた命を生きようと、永遠の命を放棄して地上に降りるダミエル。不慣れな世界で戸惑いながら暮らし始めた彼の様子に、気づいて声を掛けてくるのは同じ元・天使で俳優をしているピーター・フォーク(本人が本人役をしている)。実はこの世界にはそうした元・天使が他にもたくさんいるのだと話す。

うつくしい色彩や旋律、物語。それらは人生に不可欠なものであり、困難な時ほどひとを支える栄養になるし、それを作り出せるのは天使の仕事なのだ。元・天使たちは人間の目に見えるかたちで寄り添ったり、聞こえる声で力づけたり、小さな天国を見せるために人間になったのだろう。


「笑いを見つけられるひと」も、もしかしたら元・天使なのかもしれないし、これまでの人生で自分に現れた「その日の天使」の存在や、自分もどこかで誰かの天使であるかもしれないこと。それを思えば、もう少しだけ生きることが容易くなる気がする。











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