被害者支援について当事者が考えたこと


被害者支援について、私が漠然と感じていたことを書いてある、非常に興味深い内容の記事を読んだ。

記事には「福祉には熱意や情熱よりも大切なものがある」として、虐待やDVなどでPTSDを負っている被害者に対する、知識やスキルのない者が行う支援は、洗脳や搾取、利用につながる怖れがある、ということが書かれている。そのような支援をする「知識のないもの」の立ち回りが、時にDV加害者そのものである、ということも。


私はこの春から通信の大学で心理学の勉強を始めた。
もともと、10代のころから自分の内面に向き合うことが多く、そのころから心理学・哲学・キリスト教や仏教などの考え方から学ぼうとしてきたけれど、それは知識欲というよりも、自分自身の必要に迫られてのことだった。

この年齢で本格的に学びたいと思い勉強をし始めて、自分がこれまでに生きてきて得た知識とか、経験した一連の被害から回復するために試行錯誤して見つけてきた工夫や思考などが、すでに名前の付いた心理療法の技法や、研究され使われてきた理論であることを、次々発見し確かめることができていて、自分の人生の壮大な「おさらい」のような気がしている。

note上に書いてきたこれまでの記事も、そのおさらいの一環であるともいえる。

支援を受けたDV被害当事者であり、またこれから人間の心理について学ぼうとしている私の立場で、冒頭の記事に関連して考えていることを書いてみようと思う。


私が出会った支援者について

私の学びの最終目標はDV被害者支援とは異なる全く別のことを目指しているのだけれど、DV被害者支援に関わっているある女性のありかたを目標としている。
10年前から会ってみたいと思っていた彼女には、昨年の別居後に開催された勉強会で初めて会って話すことができたけれど、彼女はカウンセラーではない。

私がこれまで相談したカウンセラーまたは相談員は、20年以上前に一度目のDV被害後にかかった、個人でカウンセリングルームをしていたAさん、今回の別居・離婚について最初に相談に行った民間相談機関のBさん、DV被害支援相談センターのCさん、それと区役所のDV被害相談員Dさんだ。

うちBさんはDV被害専門の相談員ではないものの、別居や離婚を計画し進めていく中で、必要なことを整理し他の援助にも繋いでくれて、とても頼りになる相談員で、臨床心理士の資格を持っていた。

しかし、DV被害支援専門のカウンセラー・相談員のAさんとCさん、それぞれとの面談では、最終的になぜか私が彼女たちの話を聴いていた。

AさんもCさんも自分の話を涙を浮かべて私に話したりする。
『これじゃ立場が逆じゃん…』と思った。言わなかったけど。

そういう場に行くと至って冷静になるのが私の性質なのか、とても落ち着いて見え、相手に話を聴いてもらえると思わせてしまうらしい。
そして聴くのが苦ではないので、話されれば聴いてしまう。

しかし、これはカウンセラーとしては失格だろう。相談に来た私の回復や支援には、なんの役にもたっていない。
それどころか、これまで私がしてきた「自分を後回しにしてひとの世話をする」という役割に再び就かせてしまっている。

またDさんについては、そのような担当でありながらDV被害について想像力も知識もなかった。その話は「家族とは」「母親とは」という彼女自身の考え方を元にした被害者批判とも取れるものに終始していた。私は不快感と憤りを感じて途中で席を立ち、帰り道で号泣して以降、二度と相談に行く気が起きなかった。

三人とも何か役に立つことをしたいという情熱はある程度感じられた。けれどもDさんには、DVにも対人援助に関しても十分な知識がないと思われ、他の二人も被害者支援に目は向いていても、それ以前に必要な自分の内面の掘り下げをしてはいないのだな、と感じた。

Aさんは親子間の、Cさんは夫婦間のDV問題の元当事者だった。自分の中の解決できていないことが、私の話を聴いているうちに浮き上がってきて、それを目の前の私に吐き出してしまった、ということ。
そこは自身の内部で私のことと分けて整理すべきだったろうと思う。


カウンセリングに頼らなかった理由

別居・離婚後、精神的な不安定さと動悸や息切れ・めまいなどパニックのような身体症状が本当に辛くて、カウンセリングにかかろうかと何度か考えた。

けれども、結局行かなかったのは、おそらく私が自分について考え気づいている以上のこと、もしくは別の次元の視点からみたようなこと(それを私はカウンセリングに求めていたんだけれど)を、示唆してもらえる場にはならないだろう、それができるカウンセラーは今から探してもなかなか見つからないだろうという、諦めのようなものがあったからだ。

先に書いた「目標としている彼女」とは私は単に会って話しただけだった。しかし、ごく短時間の初めての会話で、私は思わず泣いてしまっていた。
わずかな時間自分のことを少し話しただけで「受容された」という安心感を感じられたから。
彼女は自分のことも話してくれたけれど、ただ、そこに居て耳を傾けてくれている、という印象が強かった。

私には、たまたま古くからの友人に心理学の専門家(医師、大学の教授、精神科のデイケアに関わっている人など)が数人いて、彼らとの会話、メールや電話のやり取りは、もちろん友人としての話をするだけなのだけれど、同じようなことを感じる。少ない言葉数でも「わかってもらえた」という感覚。

長年付き合いのある友人だからではあると思う。けれども、それを抜きにしても、彼女、彼らには人間としての成熟とか、他者に対する尊重が深くあることを感じるし、それは元々の人間性の上に、職業上深められていったものであるのかもしれない。

専門的な知識を持っていてもわかり得ないことがある、と認める謙虚さ。それが他者の内面に対する尊重に繋がっていると思う。そのひと、ひとりひとりの内面の世界は、限界のある人間には誰であっても、決してすべてわかるものではないからだ。人間の心に関わる仕事に就いている者には、それは欠かせない認識でもあると思う。

身の回りにそのような人たちがいるのは、稀なことであるし、その点私は恵まれているのだと思う。彼らと話すひとことが、自分で考え気づくきっかけになることは多い。

カウンセラーには、手取り足取り導いてくれるガイドのような役割を望んでいたけれど、いま考えてみるとそれも違うのかもしれない。自分がどこに行くか、どの道をたどるのか、決めるのは自分でなければいけないし、援助者は迷っている人に地図を広げて見せ、ともに行き先やその道程、方法を考えることがその役目で、手を引いて連れていくことはできないし、してはいけないんだろう。

私は、職業カウンセラーで相性のいい人を見つけることはできなかったけれど、友人たちにその都度、カウンセリングのような援助をしてもらっていたともいえる。

専門家が必要な知識を十分身につけた上で慎重にクライアントと関わるのは、人間としての自分の限界を知っているからだと思う。人の精神を操作できると考え傲慢になったり、自分の承認欲求を満たしたいという欲求があれば、支援の名を借りたコントロールになりかねない。その危険性をわからず知識の無い者が心の問題に関われば、被害者にとってそれは有害になる。


援助者がDV加害者に変わる場合

冒頭の記事を読んだときに、支援や援助が被害者にとって無益どころか害になる場合について、私がまず思い出したのは、じつはカウンセラーのことではなく元夫のことだ。

被害者が加害者と別れた後で、交際や再婚をした別の相手から再びDVを受ける、という例は珍しくない。しかし同じ被害に遭うことがわかっていれば当然関係を結ばないはずだし、最初は相手のことを理解者・援助者に感じていることが多い。

これは理解者が加害者に「変わった」というよりも、交際や結婚当初は隠していた資質が、関係が深まって出てきた、ということだと思う。

私の場合、交際の始まった当初に、自分が受けた過去のDV被害について話していた。元夫は精神的に私を支援し援助している風に、私が体験したさまざまなことを聞き取り、自分が断定した私自身の問題点について(加害者についてではなく)指摘したが、それは自分の思い通りに私をコントロールするための洗脳であったと思う。結婚後、それは搾取・利用に移行していった。冒頭の記事にある「DV加害者の立ち回り」そのものであり、実際に加害者だった。

私が話した過去のDV被害は虐待の正当化に利用され、過去にそのような目に遭ったのは私に問題があるからで、自分が私に対し怒り暴力を振るうのも当然だ、という論理で私を攻撃したのだ。今考えると、滅茶苦茶な論理展開であるけれども、当時はその通り自分に問題があるのだろうと思い込んでいた。

このように、援助者を装っていた人間が、新たな加害者になり被害者をコントロールし虐待・搾取するという形もあり得る。


他者を利用する援助者

私に対し当初そうであったように、元夫は精神的な悩みを抱えている人を見つけては好んで援助していた。親との関係で精神症状を抱えている人、社会的弱者や高齢者、精神疾患を持っている人などに対し、初めは悩みを聞き、現実的にあれこれと世話を焼き、自分のアドバイスの通りに相手が動き、頼りにされることを喜んでいるようだった。

周囲からは頼りになる良い人と思われていたし、いい旦那さんね、と言われていた。しかし、世間での態度と家での私に対する暴言・暴力とはあまりにかけ離れていたので、一体どういうことなのか理解できず、その態度の違いは私の混乱の元になっていた。

しかし、ある人に対し元夫が継続的にアドバイスをしていたのを聞いていて、そこからは素人が介入してはいけない領域だと感じた私が口をはさむと「邪魔をするな」と言われ「もう少しだったのに」と言うのを聞いて、薄ら寒くなった。

もう少しだったのに、とは『もう少しで、完全に思い通りになったのに』という意味だ。元夫がしていた支援も援助も、自分で相手を思い通りにコントロールすることに満足や全能感を感じていただけで、相手のことなど全く考えていないことがはっきり分かった。


存在に対する畏怖の無さ

その人は明らかに専門医療に委ねるべき症状で診断もされていた。元夫は専門的な勉強をした経験など全くなく、本で読んだり聞きかじりの知識だけで、心の深みに手を突っ込もうとしていた。人間の存在や精神に対する畏怖もなく、傷みを受けながら何とか生きてきたその人に対する敬意もない。

私はよく「敬意が無い」とか「おれを尊重しろ」と言われたけれど、敬意も愛情も強いられて持つものではない。自然に湧き上がる感情だし、敬意は立場に対して持つものではなく、人そのものに対し持つものだと思う。

敬意を持たれるような人間であるかどうか、自分を省みることも全くしない人間ほど、敬意云々と口にするようだし、敬意を持たれるような人は決して自分からそれを口にし要求したりしないものだ。

何より、他者の存在に対してそれを持てない人間が、敬意を持たれるはずもない。存在や命に対する畏怖もないから、平気で他人に手を上げ貶める暴言を吐くこともできるのだろう。


支援を装った搾取と利用

自分が関わった人間が思い通りに動き、ある程度のメリット(仕事や金銭の場合もあった)を得ると、元夫は相手に対し、初めから知らなかった人のように一切関わらなくなる。飽きたように放り出して連絡さえしなくなり、たまたま会っても挨拶すらしないこともあった。

私は結婚生活の間、そうした人を6~7人見てきたが、彼らのその後を私がどうにかできるわけでもなく、歯がゆく申し訳ないような思いでいた。

そのような人が身の回りに居なくなり、私も家を出てコントロールできなくなったのに、元夫がすぐに離婚に応じず私をなかなか手放そうとしなかったのは、生活費を稼ぐ家政婦でありストレス時のサンドバッグとして利用する、という永続的なメリットが私という存在にあったからだ。

それと同じようなメンタリティを持つ人間は、他人の場合は「支援」や「援助」の名を借りて、また私のように家族になってしまった場合は「家族だから」という枠組みと圧力で、被害者を利用し搾取する構造をとる。

それは、承認欲求を得るためなのはもちろん、金銭などの利益や物、労働力などのほか、被害者の自尊心、回復力や自己決定権など目には見えないものも多く搾取している。しかし多くは第三者からは見えにくく、周囲から認知されないまま被害者が搾取され続ける。


良い支援者とは

では、そのような支援を装う人間と、良い「支援者」「援助者」を見分けるにはどうしたらいいのだろうか。

虐待やDV被害者は、長く問題のある人間関係の中にいて、それに悪い意味で慣れてしまっているので、健全な関係の距離感や関わり方を知らない、または見失っていることが多い。

これは私自身にも言えることだからわかるのだけれど、自分を尊重してくれる人が取ってくれる適度な距離(自己と他者の境界)を、自分に対する冷淡さや関心の無さと誤解してしまう。

被害を受けていた間だけではなく、場合によってはそれ以前の生育歴のなかでも、コントロールされたり過剰な干渉や支配に慣らされてきたことが多いので、自分の領域に踏み込んでくる相手の、強く激しい感情や執着を愛情だと勘違いしており、ゆっくりと本人のペースを大事にし見守ってくれるような、穏やかな愛情や配慮はあまりに薄く感じて実感できないのだ。

そのため、表面的な熱心さや強引さに引きずられやすく、強く推してくる相手の意向に従ってしまう傾向がある。

ところで、虐待等の被害者に関わる援助者が注意すべきこととして、冒頭の記事には援助者について4つのパターンが挙げられている。

1.熱意があり能力がある→実践して有効
2.熱意がなく能力がある→実践しないので無害
3.熱意がなく能力がない→実践しないので無害
4.熱意があり能力がない→実践してしまい悪影響を与える最も害悪

被援助者に影響を与えるのは1と4で、それがスキルを持つ有効な支援者なのか、最も害悪になる支援者かを見分けることが重要になる。

その人を見ただけではっきりと見分けることは最初は難しいけれど、手掛かりになるのは「考えを強制しない」「断定的に物を言わない」ということだろうか。

先に挙げた1と4はともに「その支援に対する熱意がある」ので、その熱意がどちらの方向へ向いているかということだろう。1は相手を理解しようとする方向に熱意が向いているはずで、4は自分の意見を通すことやその考えの通りに相手が従うことに熱意を向けていると思う。

例えば「あなたのためを思って言ってるんだから」というのは、自分の考えややり方を受け入れるように押し付けている強制だし「あなたはこうするべき」「こうするべきじゃない」と断定するのも、その人の考えやペースを尊重してくれているとは言えない。

気が進まないことや、すぐには決められない、行動できないことについて、同意を急かしたり勝手に進めようとする人とは、いったん距離を置いたほうがいい。

良い支援者になり得る人は、被援助者が自分で考えることや自分のペースで進むことを大事にしてくれるし、その考えやペースを理解するためによく耳を傾けてくれる。


被害者側の心構え

弱っている時、親し気に聞いてくる人には自分の傷みの元になっている体験を吐き出してしまいたくなるけれども、自分の被害について話すこと・その相手を選ぶことには、十分慎重になる必要がある。私自身がそれで失敗したからなおさらそう思う。

同じ被害当事者同士の分かち合いは、安全に話せる場としておすすめできるし、私自身が現在もそうした自助グループには参加している。専門的な心理ケアを受けることとは異なり「ただ話すだけ・聴くだけ」の場であるけれど、精神的な安定には役立っている。

自助グループを含み、カウンセラー・支援団体については、自分に合わないとか違和感を感じれば、行くのを辞めたり他のところに変えることは、割と容易くできるだろう。

しかし、友人関係・恋愛関係など個人的な付き合いの場合、相手からの働きかけも職業として関わる人より強くなるし、情が絡んでくると判断がつきにくくなる。

身の回りの個人について、自分にとって良い理解者・援助者であるかを見分けるのは、執着と愛情(必ずしも恋愛に限らない感情も含む)の違いを見分けると言っていいかもしれない。

まず、他者の境界を踏み越えて自分が過剰に執着しようとしたときに(被害者の多くはそのやり方に慣れてしまっているので、意識して自分の行動をセーブしなければ、同じやり方になっている)、それに応じるのは同じように執着する相手だ。そのような相手とは、被害を受けたのと再び同じ関係性になる可能性が高いと思う。

また、相手に対し違和感や何かネガティブな感情を感じた時に、それを伝えられ、かつ受け入れてくれる相手、伝えた後より分かり合えるとか良い結果になる相手なら、良い友人であり援助者・理解者になり得る人と思う。

先に書いたように、DV被害者は健康な人間関係の距離感を、寂しく心もとなく感じる傾向があると思う。難しいことではあるけれども、他者との関係を拙速に深めようとしないで、その当たり前の距離感や自己と他者の境界を分けることに慣れていく必要がある。

簡単に言うと、寂しさに少しずつ慣れること、と思う。カウンセラーでも友人でも、頼るのは必要だし悪いことではないけれど、自分自身と向き合う時間も意識的に持つことだ。これは私自身も取り組んできたことで、徐々に当たり前の距離感に慣れてきて、病的な寂しさに囚われなくなってきた。


結び

私はこの記事を含め、DV被害に遭った当事者を「被害者」と表記している。被害当事者の中には、そう呼ばれることを辛く感じる人もいる、と知っているし、私自身も、役所や警察などで「被害者」として扱われることや、何らかの手続きで何度も「被害証明」をしなければならなかったことが、精神的につらかったのは確かだ。

でも、私があえてそう書いているのは、被害を受けてきたことを長年認識できずに自分に非があると思い込み、相手に「おまえのせいで自分は暴力を振るわされている」「言いたくない暴言も言わざるを得なくなっている」と主張されてきたことに対し、被害を被っているのは私のほうで、非難されるべき加害者は相手の方だと、何度でも明確にしておきたかったからだ。

逃げ出さない被害者にも責任があるとか、共依存だから仕方がない、という論理には全くうなづけない。逃げ出せないのは、仮に本人が意識できていなくとも、暴力による心理的なコントロールのためだ。

常に身の危険を感じさせられた挙句、恐怖で精神をコントロールされるということがどういうことかは、実際に体験しなければわからないだろうと思う。

だからこそ、想像力、確実な知識・スキルは対人援助に不可欠だと思うのだ。

DV被害の解決やトラウマ回復を標榜しているカウンセラーは、リアルだけではなくネット上にも多数見かける。

虐待やDV被害で心的外傷を負っている人は半死半生でそこから逃れ、やっと生き延びてきた人たちだ。そういう人たちの心的援助に関わるなら、せっかく生き延びた人を再び苦しみに落とすようなことには、決してならないようにしていただきたいと思う。






















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