この声が枯れるくらいに
中学の頃の担任が青いベンチが好きだった。その独断で合唱コンクールも青いベンチを歌った。湊かなえ作、告白に出てくるウェルテルにそっくりな、熱血教師であった。正直あまり好きではなかった。
この声が枯れるくらいに君に好きと言えばよかった
会いたくて仕方なかった どこにいても何をしてても
妙にキャッチーなこのフレーズを私は今でも覚えている。合唱コンクールで歌ったからとかそういった思い出の類ではなく、単に耳触りの良さで記憶していた。この曲を選んだ当の本人はこんな甘酸っぱい恋愛をしたかと言うとそうでは無く、「大学生の頃飲み会の席で粗相をした、すると横に座っていた女性が皆に見えぬようコソッとハンカチを貸してくれた。その心遣いに惚れ込んで、当時彼女にボウイフレンドがいたにも関わらず猛烈にアタックし、今の奥さんになったのだ」と自慢げに話していた。
そういう豪胆なところもあまり好きではなかった。
ああ いつも僕が 待たせた
駅で 待つはずない 君を探すけれど
私にも、このような甘酸っぱい恋愛の記憶は無いが、待ちぼうけを食らったことは幾度となくある。
一番最初の記憶は、小学校5年生の頃、クラスの仲の良い友人らと地下鉄に乗って上本町まで行こうと試みた時のことである。当時、インターネットもスマートフォンもろくに普及しておらず、小学生だった私たちがすることと言えばお互いの家や庭、公園でDSを赤外線通信で遊ぶか、駄菓子屋で水風船などを買ってきて遊ぶかであった。自転車で行ける半径3km以内。それが私たちの遊び場だった。
そこを抜け出し、日曜日のお昼、最寄り駅で待ち合わせをして上本町まで行くというのは中々の冒険だった。死体を探しに行くとまではいかないが、DSと切符代をリュックに入れて、丁度ゲーム機にカメラが搭載された頃だったのでゴールの駅で写真を撮って帰ろうと言うのは遠足の前夜くらい心躍る出来事であった。
どうしても日曜日の朝の習い事を休めなかったので、それをこなしてから駅に向かう。
待てど暮らせど友人らはやってこない。
心配した母が、今日はもう帰ろうかと車で迎えに来てくれが、あんなに情けなかった心持ちはなかった。
とはいえ、どこかで分かっていたのだと思う。自分は中学受験をし、もうこの町の学校に通うことは無い。友人に朝電話をしたが、とても眠そうな声で、何?と返事をしただけであった。
なんとなく、ああ今日は行けない日なのだろうなと幼心に直感したのである。
あの駅に青いベンチは無かったが、もし母が迎えに来てくれなければどのくらいそこに座って待っていただろう。
駅で 待つはずない 君を探すけれど
あるいは友人らは、数時間後に、あるいは数年後駅にやってきて、私の姿を探してくれただろうか。
六年生ではクラスも離れ離れになり、まもなく中学に進学した。仏教の学校であった。
曼荼羅、という考えを説かれたのを覚えている。
曼荼羅と言うのは、誰にでも座る場所がある、そういうことだと。
病院で寝たきりの、全ての介助を人にやってもらわねばらない病人がいた。病人は看護師に、申し訳ない、自分のようなものは生きていても仕方がないと言う。看護師は、あなたがいるから私たちはここで働けているのですと言った。
このように、自分で身動き出来ぬ人がいたとして、その人にも座る場所がある、この考えが曼荼羅だとそう教わった。
そこに座っていると、辛い時もある。自分の上に風が吹かぬ場合もある。しかし、諸行無常、常に同じということは無い、いつか吹くその風を掴めば良い、と。
町中のベンチが、駅中のベンチが、世界中のベンチがこの曼荼羅の考えにある、待ちぼうけを食らったような、今自分の上に風が吹いているとは思えない人間たちの座る場所であればと私は思う。
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