私の言葉への責任。影響力を考える

Twitterのフォロワーが5000人を超えている。そんなユーザーはいくらでもいるけれど、私は顔も名前も出している分、発言への信頼度が高いらしい。自分の言葉の持つ影響力について考え、心に留めておきたい、これは備忘録だ。

最近、私の発言に対して指摘をくれる人が増えた。それが大抵、本題とは違う部分や文章の書き方へメスを入れていたりするものだから、はじめのうちは「意見になにも違いがないのに、この人はなにに噛み付いているのだろう」と思っていたけれど、私が指摘されていたのは、「私が想定できていない、世の中への影響」の部分だった。

一個人が発言に対してそこまで責任を負わされることはないのではという考え方もあるだろう。まずもって私は、本題の部分では少なくとも誰かの助けになることしか言わない。ただ、指摘をくれる人が「誰かにはそう受け取られうる」細かい部分まで気にかけてくれるのは、多分、普段の私がそんなに間違ったことは言わないと信用してくれていて、かつ、放置してしまうと世の中へ悪影響を及ぼす力があるだなんて思えるくらい、私の言葉の力も信じてくれているのだと思う。そこまででなくても、言葉の端が気に障って感情的にさせてしまったのならば、その人を傷つけてしまったことは事実だ。それは、数人を傷つけてまで言う価値があることなのかどうか、常に考えなければなあと思う。

「嫌なら見なければいい」を魔法の言葉のように使って免罪符にする人を見かけるけれど、実際にはそういうものではない。思想を含む/思想を育む可能性のある発言を受け入れるということは、それがもたらした結果としての世界も受け入れるということだ。私の発言がなにか優しくない世界を助長してしまったならば、それは私が優しくない世界を作ったのと同じことだ。「嫌な発言を見ない」という選択をした人もまた、嫌な世界を作らないよう反論することを放棄したというのと同じことだ。

「あなたは、頼むから、そんなこと言わないでくれ」「ここに穴があるから、飛躍がありそうだ」と伝えてくれる。
私だって、自分の言葉はできるだけ確かであってほしいし、それ以上に、少しでも世界を平和にするために、人を楽にするためにありたいと思うから、彼らの、もっと見識を深めてほしい、こういう捉え方も想定してほしいという指摘は、私自身が巻き込む力によって、平和という目的への協力としていきたいと思う。具体的な文献まで伝えてくれる人もいる。できる限り応えたい。

忘れないために書いた。私は自分の影響力を武器のように振りかざす人間にはなりたくない。誰かの代弁者でありたいし、いつも誰かの心をほどく助けになりたいと思っている。

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