見出し画像

『彼岸花が咲く島』: ‘ことば‘についてあれこれ思いを巡らせてしまう

李琴峰さんの「彼岸花が咲く島」を読みました。

ーーー
主人公の少女が流れ着いた場所は彼岸花の咲く島。この島ではニホン語と女語という二つの言語が話されており、白い服を着たノロと呼ばれる女性によって統制されていた。島に流れ着く以前の記憶が無い少女は、島のことばを学びながら島の人々とともに生きていくことにするが、その過程で島の歴史を知っていくことになる、そんなお話。
ーーー



島という閉ざされた社会

まず、わたしこういうクローズドな社会が舞台の話が結構好き。

閉ざされた狭いコミュニティの中で生きる人たち、そしてそれを維持するための信仰や厳しい掟。こういうのが絡んでくるお話にはなんというか人間の本性だとか弱さみたいなものが、ものすごく忠実に表現されているように感じられて、心に強く刻まれるから。

徹底的に男性を排除し女性の楽園として外界と完全に遮断された環境で共同生活を送る、『八日目の蟬』でのカルト宗教エンジェルホームや、

雛見沢村で古くから続く特有の風習や信仰が根強く残る、『ひぐらしのなく頃に』でのオヤシロさま信仰、

病を治す万能の水を販売する、『星の子』の信仰宗教など。

こういう要素が含まれていると、すごくいろいろなことを考えさせられるし、とても顕著に見えてくる人間の弱さにしっかり感情移入してしまって、物語の世界にどっぷり入り込んじゃう感じがたまらない。


ことばに思いを巡らせる

そしてこの作品はさらに、ことばについても深く考えさせられる。

主人公の少女はもともと漢字・漢語が排除されたやまとことばがベースの〈ひのもとことば〉を使用していた。一方、島では沖縄のことばと台湾のことばが入り混じった〈ニホン語〉と、現在の日本語に似ており、女性のみが習得することを許される〈女語〉が話されている。


漢字や漢語由来のことば、つまり外部のものを排除し純粋な日本のことばを目指そうとする〈ひのもとことば〉。純粋なことばってなんだろう。外部のものを排除すればそれは純粋なものになるのだろうか。文化やことばというのは常に一定の決まった姿を持つものではなく、私たち人々の営みや交流を通じて生まれ、常に変化し続けるものだ。文化やことばも私たち人間とともに“生きている“。

私たちの暮らしのあり方が変われば文化だって変わるし、新しい考えや概念が生まれればそれを表現するための新しいことばも生まれる。使われなくなって消えてゆくことばだってある。


島で使われている〈ニホン語〉は沖縄と台湾のことばが入り混じった、島の住民にのみ理解されうることばだが、なぜ台湾のことばが混じっているのかといったところは後半部分で明らかになる島の歴史を知ることで分かってくる。

純粋なことばであろうとする〈ひのもとことば〉も、別の国のことばが入り混じる〈ニホン語〉も、どちらもれっきとした“ことば“だ。そのことばを交流のツールとして使う人々がいて、コミュニティーがある。


わたしが韓国に7年ほど住んでいた際に、同じく韓国で暮らす日本人の友人と会話する度に思うことがあった。日本にはあって海外には無い文化があるように、韓国にはあって日本には無い文化がある。そういう場合、もちろん文化そのものがないのだからそれを示すことばも無いわけなので、日本語で話していてもある単語や表現は韓国語をそのまま埋め込んで話す、といった風になる。こういう日本語に韓国語の混じった会話が、韓国で暮らす日本人同士ではよく行われる、ということだ。


例えば韓国ではよく、割り勘の際に誰かに一旦全て支払ってもらい、自分の分は後ほど払ってくれた友人の銀行口座に送金する、ということをよくした(最近ではPayPayのようにより簡単に送金する方法が主流になってきている)のだが、この際に送金という表現よりも‘계좌이체(口座移替: ある口座に入っているお金を他の口座に移すこと)’という表現を主に使うので、自然と日本語でも「わたし支払っとくから後で계좌이체(ケジャイチェ)しといて〜」となる。


これもまた韓国在住の日本人コミュニティにおけるひとつのことばなのだろうなと、韓国在住中に思っていたことがこの作品を読みながら再び思い浮かぶ。


さいごに

また、この作品の〈島〉のモデルは与那国島だそうで、作品にも島の歴史として出てくる与那国島の歴史に興味を持ったのと、そういう歴史も知った上でいつか自分も実際に訪れてみたいなと思う。きっとこの作品に出てくる独特な島の描写や、どこか惹きつけられるような表現の仕方がまたそういう気持ちにさせるのだろうなと。


ラストは希望のあるものだったと思いたい。この続きの物語があるのならまた読みたいな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?