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これからをどう生きるか。そのために必要なもの。

2011.3.11東日本大震災のあの日から10年が経ち、そして、コロナ禍の今、これからをどう生きるか。

そんなことを、ぼんやりと考えていた時に聴いた、奈良県東吉野村にある人文系私設図書館ルチャリブロの青木真兵さんが、毎週水曜日に発信されているオムライスラヂオ。
今週の放送内容は、思想家の内田樹さんと建築家の光嶋裕介さんとの対談だった。
博識で思考が深い御三方の対談なので、ただのその辺の主婦である私にはよくわからない部分もたくさんあったけれど、総じて興味深く、最後まであっという間に聴き終わった。

その中で特に気になった言葉が、
"身体性"と"超越性"であった。
この2つ、必要不可欠な要素だなぁと深く頷いた。


まず1つ目の"身体性"。
いろんなものが自動化されデジタル化され
外注され、どんどん便利になっていく。
そうなればなるほど、本来自分たちが
持っていた身体性はどんどん失われていく。

本来は、五感全てを使って交わされていたであろう他者とのコミュニケーションですら、コロナ禍の今は、視覚と聴覚のみに限定されてしまっていることも多い。
確かに、離れた相手とオンラインで顔を見て話が出来ることはとても便利でありがたい。
海外にいる今、日本の家族や友人の顔を見ていつでも会話できることの有難さは、特に感じている。
だけれども、私が本当に求めているのは、そういうコミュニケーションではない。
相手の顔を見て、声を聴くだけではなく
相手の顔色や表情のちょっとした変化、
声のトーンや相づちの変化、
身振り手振りなどの動き、
時間や場所など同じ環境を共有しているにも関わらず、自分とは異なる捉え方をする相手の反応、
そういったものを、五感(時には第六感も)全てを使って受け止め、また相手に大して投げかけるコミュニケーションを、私はしたいのだ。
言い換えればそれは、"身体性のあるコミュニケーション"ということなのかな、と。

鬼滅の刃で、炭治郎は匂いで、善逸は音で相手の感情がわかるという設定があるが、彼らほどではないにしても、きっと昔は、みんながある程度そういう能力を持って身体性のあるコミュニケーションをしていたんじゃないかと思う。
本来"場の空気を読む"ってのは、周りに合わせるとかいうことではなく、そういうものを感じとるってことだったんじゃないかと思う。

なんだか話が逸れてしまった。
すぐ脱線してしまう。

とにかく、本来、私たちが持っていたはずの身体性を、取り戻す必要があると感じている。
ましてや、今のこどもたちにおいては、生まれたときからデジタル、便利が当たり前の環境なので、"身体性"を養うことを強く意識しておかなければならないと思う。


そしてもう1つ気になった言葉、"超越性"。
何においてか、というと場所や空間における"超越性"のこと。

オムラヂの中で内田樹さんは、自身の道場を作るにあたり"超越性のある場が必要"と言っていた。
その場を訪れた人が、理由がよくわからなくても、この場所には敬意を払う必要がある、不躾な行いをしてはいけない、と思わせるような、目に見えない何かを感じさせるものが必要だということ。

わかりやすい例でいうと、神社やお寺、教会では、そこに神様や仏様がいるので、その場における作法に則ってお参りをするし、多くの人は、そういう場所では悪いことをしようとは思わない。
それは、目に見えない力、"超越性のあるもの"がそこに働いているからだ。
では、人はその超越性をどのようにして感じるのだろうか。

幼い頃からそういう場を経験をしていると、自ずとそれを感じられるようになる。
目に見えないものに対して、自然と畏敬の念を抱き、その場での行動を律するようになる。
それは、我が子を見ていて感じたこと。

うちの子たちは、娘は5歳の時、息子は2歳のときに、タイの幼稚園に通っていた。
そこでは毎日、お祈りの時間があった。
タイは仏教国なので、祈る相手は仏様。
日本で仏像を見たことはあっても、日本とタイの仏像では見た目も異なるし、お祈りの言葉はタイ語だったので、こどもたちにすれば初めはきっと、何をしているのかわけがわからなかっただろう。
しかし、部屋の明かりを消してロウソクに火を灯し、心静かに手を合わせる時間だ、というのは、周りの子たちや先生の様子を見て察することは出来た。
食事の前にはお日様や自然の恵みに感謝していただきましょうという歌を歌っていた。
そして、幼稚園の外でも、街中にはたくさんのお寺や仏像があり、それぞれの場で熱心に祈っている人たちを日常的に目にしていた。
マンションの入口にも仏様がいて、毎週月曜日に幼稚園で作った花飾りを、翌日火曜日の朝にお捧げしていた。そういう習慣が身についた頃に、日本に帰国した。

帰国してから通い始めた幼稚園は、キリスト教の幼稚園だった。今度は毎日、礼拝があり、仏様ではなく神様に祈るようになった。お昼ごはんの前には、やはり神様からの恵みに感謝するお祈りをしていた。
祈る相手が仏様から神様に変わったことは、本人たちにとってはさほど大きな変化ではなかったように見えた(実際どうだったかはわからないが)。ただ、"目に見えない存在に対して手を合わせて祈る、心を向ける"ということはどちらにも共通していたので、祈る対象が変わっても、すんなり受け止められたんだろう。

彼らがどれほど信仰心を持っているのかはわからないし、別に持っていないかもしれない。
ただ、目に見えないものに対して心を向ける、その祈りの場に敬意を払うことを体感してきたということは、彼らにとって、非常に大きな経験になっていると思う。

そして、より幼い頃からその経験をしてきた息子の方が、信仰心(のようなもの)が厚い。
今、ロンドンで通っているのはカトリックの学校で、もちろんお祈りの時間がある。そして、祈る言葉はもちろん英語である。
何を言っているのかはわからなくても、お祈りの時間だということは、彼はこれまでの経験で察知できるので、黙って手を合わせて、(唯一理解できる)アーメンだけは小声で唱えていた。
英語でのお祈りの言葉や動きを伝えてやると、1人で何度も練習していた。
娘ももちろん同じ状況で、お祈りの時間を察知することは出来ているけれど、息子ほど熱心に手を合わせたりお祈りの言葉を練習する様子はない。
性格の違いもあるだろうけれど、言葉もよくわからない幼い頃から"行為として祈る"ことをしてきた息子と、すでにある程度、言葉を習得していて、"言葉で祈る"ことをしてきた娘の違いなんじゃないかとも思っている。

ともあれ、仏教とキリスト教の幼稚園に通えたことは、彼らにとって貴重な経験となったと、私は思っている。本人たちがどう思っているかは、わからないが。

そして、その2つの幼稚園に通ったことに加えて、いつの間にか私が社寺仏閣好きになっていたことで、やたらといろんな神社やお寺に連れ回され、それぞれの場所でそれぞれの作法でお参りさせられてきたわが子たち。
もはや、誰に対して祈るのかなんて、どうでもいいと思っているんじゃないかと思う。それでも、目に見えないものに対して心を向ける、その場に敬意を払う、という振る舞いは、彼らの体に染み付いていた。

2人とも、場の"超越性"を感じる能力を、しっかりと身につけている。
それは絶対にオンラインや机上で学べるものではなく、"身体性"のある経験でしか体得しえないものだと思う。
祈る対象がなんであれ、それぞれの人たちが大切にしている"超越性"を持つ相手や空間が存在していること。それを身をもって知っていることは、異文化、異宗教を受け入れるための、多いなる助けになるだろう。

2011.3.11東日本大震災のあの日から10年が経ち、これからをどう生きるか。
それを考えるにあたり、"身体性"と"超越性"この2つは、非常に重要な要素になる、と感じた。