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娘についての備忘録 〜グラストンベリー旅の理由〜

4月の終わりに、娘と2人でグラストンベリーを訪れた。その時のことは既に細かく書き残したけれど、なぜ母子2人旅をすることになったか、という経緯については書いていなかったことを思い出したので、改めて書き残しておこうと思う。

2月の終わり頃から、娘はずっと咳をしていた。痰の絡む激しいものではなく、乾いた咳だった。わが家は、というか私の方針で、体調不良になっても、基本的にはすぐに病院に行ったり薬を飲んだりということはしない。しばらく安静にして様子を見ていれば、たいていの不調は自然治癒力によって改善するからだ。このときも、すぐには病院に行かなかった。本人も「咳は出るけど、別にしんどいわけじゃないから大丈夫」と言っていた。しかし、2週間以上咳が続いている様子を見て、さすがに一度、病院の診察を受けておこうという気になった。

実は私自身が、過去に肺結核と診断されたことがあり、万が一にも娘が結核にかかっていてはいけないと思ったからである。病院で診察を受けて、何も問題なければそれでいいし、とりあえず行ってみることにした。診察の結果は、呼吸音には異常はないし、特段大きな病気の予兆も見られないから、風邪によるものだろう、とのことだった。「ま、たいしたことはないとわかってよかったね」と言って、特に薬ももらわず、そのまま病院を後にした。

しかし、その後も娘の咳は続いていた。急速に悪化することはないものの、目立って改善することもないまま、さらに2週間が過ぎた。頭が痛い、しんどい、と言って3日間学校を休んだ日もあった。中学校に入ってから、欠席したのはこのときが初めてだった。
学校を3日欠席して休養しても尚、娘の調子は上がらないままだったので、一度、整体の施術を受けさせた。近所に住む私の友人が「おうち整体」という施術をしているので、体をほぐして巡らせて、娘の体に滞っている悪いものを出せたらいいな、と思ったのだ。
30分の予定で施術をお願いしたのだけれど、「すごく体が張っているので、45分必要です」と言われ、延長してもらった。そんなに体が張るほど疲れていたのかと、とのときに改めて気付かされた。施術を終えて帰ってきた娘は「すごく気持ちよかった。またやってほしい」と言って、顔色も良くなっていたので、私は少し、安心した。すぐ近くに頼りになる友人がいることを、とても有難く感じた。 

友人の施術の効果もあってか、その後は少しずつ、娘の咳は改善してきていた。けれど、それまでほどの元気はなく、「学校行くのやだなー」と言っていた。中学入学後、学校に行きたくないと言ったのは、この時が初めてだったと思う。だから、娘にとっての問題は、体よりもメンタル的な問題にあるのかもしれない、と感じた。しかし、すぐ翌週から2週間のイースターホリデーに入るタイミングだったため、「とりあえずフィジカル的に大丈夫なら、イースターまでは頑張って学校に行って、ホリデー中にしっかり休みなさい」と私は娘に伝えた。娘は不満そうに、けだるそうに、学校へ通っていた。

“メンタル的な問題”と書いたけれど、学校で嫌なことがあるとか、友人関係に問題があるとか、そういうことではなさそうだった。本人に尋ねても、そういうことではない、と否定していたし、深刻な何かを隠しているような様子でもなかった(ように私は感じた)。ただただ、疲れがたまっている、ということだったのだと思う。

イースターホリデーに入ってすぐの4月初めに、息子が熱を出した。3日間ほど熱が続いた後、足に発疹が出ていたが、数日して消えた。息子の熱と発疹が収まったと思ったら、今度は娘が熱を出した。息子はよく熱を出すが、娘が発熱したのは久しぶりだった。けれど、息子の風邪がうつったのだろうと思い、さほど深刻には捉えていなかった。
その翌朝も、娘の熱は高いままだった。赤い顔をしてベッドに寝ている姿は、少し苦しそうだったが、「とにかくしっかり寝て休みなさい」と声をかけ、私は1階で家事をこなしていた。家事が一段落したので、娘の様子を見ようと2階に上がろうとしたら、娘の「おかあさぁん、ちょっと来て」という声が、娘の部屋からではなく、2階の洗面所から聞こえた。行ってみると、娘は洗面台にもたれ掛かり、鼻を押さえていた。鼻血が出ていたようだ。
彼女はしょっちゅう鼻血を出す。この時も発熱によってのぼせたから出たのだろう、と思い、特にいつもと違うとは思っていなかった。しかし、「鼻血が全然止まらない」とのことだった。「どれくらい?」と尋ねても「30分くらいかな?」とはっきりとはわからないようだったけれど、とにかくその時点で、すでにかなり出血していた様子だった。
娘が自分で押さえていた手を離し、私が娘の小鼻を強くつまんだ。そのまま5分ほどしてもまだ止まらなかった。立ったままもしんどそうだったので、トイレの便座の蓋を閉めて座らせ、そのままつまみ続けたが、まだ止まらなかった。顔から血の気が失せはじめていた。その蒼白い顔を見て、さすがに私は少し不安になってきた。さらに、娘は肩で呼吸をし始めた。「どうした?」と尋ねると「息が苦しい」と答えた。鼻血が出過ぎて貧血を起こし、それにより呼吸も苦しくなってきたのだろうと思われた。肩で息をしながら、なおも出血は止まらない。このまま止まらなかったらどうしよう、呼吸困難になって意識を失ったらどうしよう、という不安が、私の胸に急にどっと押し寄せてきた。そして私は、一瞬ためらったものの、999つまり、救急に電話をかけた。鼻血程度のことで救急に電話するなんて、と思わないでもなかったが、夫は出社していて不在、息子もまだ体調万全でないためにホリデーキャンプを休んで家にいた。そんな状況で、落ち着いて考えられる余裕がなく、万が一のときのことを考えるならば、救急に電話をすることが、その時の私にとっての最適解だったのだ。

すぐにオペレーターが出て、意識はあるか、呼吸は出来ているか、などと娘の状況を尋ねられた。「鼻血が3~40分以上止まらない。貧血のせいか、顔面が真っ青で息苦しいと言っていて、呼吸が浅い。昨日から高熱も出ている」と伝えた。オペレーターは、「救急車を手配できるか確認して、すぐにこの番号に折り返す」と言って電話を切った。
その言葉通り、その後すぐに電話がかかってきた。さっきのオペレーターは女性だったけれど、今度の電話の声は男性だった。救急隊員らしかった。先ほどと同じように娘の状況を伝えると、「今、SMSでリンクを送ったからそれにアクセスしてください」と言われ、指示通りにアクセスすると、ウェブカメラが起動した。こちらから向こうの顔は見えなかったけれど、向こうからはこちらの様子が見えるようになっていた。
隊員は、カメラ越しに、娘と私に止血方法を指示した。私たちはずっとその通りにやっているのだが、それでも止まらないから困ってるんだよ、などと思いながらも、素直にハイハイと答えた。時折、私では聞き取れない、理解できないことを言われたが、娘はそれを理解し、自分で答えていた。親としての自分のふがいなさを感じるとともに、娘の成長を改めて感じる場面であったが、いかんせん、娘は鼻血を出し続けている状況だったので、そんな感慨に浸っているヒマはなかった。
救急隊員とのテレビ電話が始まってから5分ほどして、ようやく鼻血が止まった。カメラ越しに娘の様子を確認していた隊員は、出血が止まったこと、しっかりと意識があること、呼吸が出来ていることを確認すると、「とりあえず緊急を要する状況ではなさそうだから、救急車の手配は見送ります。でも、念のためA&E(救急外来)を受診することを勧めます。タクシーを手配しましょうか?」と言った。私はそうしてほしいと答えて、タクシーを手配してもらい、電話を切った。救急隊員は、終始穏やかに、焦らずにこちらの話を聞いてくれていたので、私は随分落ち着きを取り戻すことができた。電話を切った後、娘に水と梅醤番茶を飲ませてから、急いで病院へ行く準備をした。

救急隊員が手配してくれたタクシーはすぐにやって来て、私たちはそれに乗り込み、病院へと向かった。初めて訪れるロンドンの救急外来A&Eは、受付スタッフ、看護師、医師、外来患者、そのほとんどがインド系や中東系の人ばかりで、聞こえてくる言語も様々。ここはどこだ?という錯覚に陥ったが、そう言う私たちも、この国ではもちろん、アウトサイダーだ。
受付を済ませ、待合い椅子で待っているとき、娘が気分が悪いと言ったので、その旨を受け付けスタッフに伝えると、嘔吐用の紙製ボウルを渡された。手にするなり、娘は嘔吐した。その吐しゃ物が赤黒かったので、一瞬、血を吐いたのかと思い焦ったが、家を出る前に飲んだ梅醤番茶の色だと気づき、紛らわしいものを飲ませた自分を責めたくなった。吐いたことで、娘はより憔悴したように見えたが、本人が「大丈夫」と言うので、そのまま、その待合い椅子で診察の順番を待った。
待ち時間は1時間半程度だったと思うが、時間の経過が非常に遅く感じられた。ひとりで家に置いておけないために、仕方なく一緒に病院まで連れてこられた息子は、とても退屈そうにしていた。「お腹空いた」というので、持参していたスナックやゼリーを食べさせた。よくこんな場所で食べ物を食べる気になるものだ、と思ったけれど、息子はそういうやつなのだ。体調不良で食べられないとき以外は、彼はとにかくいつでも食べ物を欲している。娘はそのとき、何かを食べられる状況でも気分でもなかったようなので、何も口にしなかった。
ようやく診察室に入った頃には、娘の状態はかなり落ち着いており、受け答えもしっかり自分でしていた。医師の見立てによると特段、深刻な病状でもなく、発熱による鼻血、大量出血による貧血だろう、とのことだった。初めからわかっていたことではあったのだけれど、大きな病気の兆候がなにもなかったという事実に、私はただただ安堵し、医師に礼を言って、診察室を後にした。
イギリスの救急外来は、7-8時間待たされることもザラにある、という悪しき噂を聞いていたけれど、私たちは受付から診察完了までで約2時間で済んだので、ラッキーだったのだと思う。不幸中の幸い、というやつだ。私たちが病院を出る頃には、待合室に座っている人の数は、到着時の倍ほどの人数になっていた。その人たちを横目に見ながら、私たちは帰路についた。

病院へ行ったことで娘は非常に疲れたようで、家に帰るとすぐに寝てしまった。眠っている娘の顔を見て、代われるものなら代わってやりたい、と思った。しかし、もちろん代わることができるわけではない私にできたことは、娘の頭をそっと撫でることくらいだった。娘の息遣いが、いつもより熱く、荒かった。
翌日には熱も下がったけれど、娘は一日中ベッドの上で過ごしていた。その後、体調は回復していったが、それまでのような気力が見られず、口数も少なかった。

イースターホリデー中、特にこれと言った予定のなかった娘は、終日パジャマのまま、何をするでもなく、ときどき本を読む以外は、部屋でだらだらと過ごしていた。私もそれに対して何も言わないようにしていた。思う存分、ゆっくりと静養すればいい、そうすれば元気になるだろう、と思って見守っていた。しかし、家で静かに過ごしたくても、騒がしい弟がいると、なかなか静かに過ごせない。そのことが、この時の娘にとってはストレスになっていたようだ。
そんな娘に「どこか行きたいところとか、やりたいこととかある?」と尋ねたら、「日本の温泉に入ってぼーっとしたい」という答えが返ってきたので、「さすがにそれはかなえてあげられないなぁ。イギリス国内でどこか行きたいところとかないの?」と聞き直すと、「前にみんなで行って、お母さんがまた行きたいって言っていたグラストンベリーとかでもいい。静かなところで何もしないで、ひなたぼっこしたい」と答えた。それならかなえてやれる!と思い、急遽その週末に、一泊二日の母娘2人旅を計画したのだった。

これまでの娘の人生において、メンタル的にここまで弱っていたのは、この時が初めてだった。思春期という、心身ともに大きく変化する時期にさしかかっているということが、今回の不調のひとつの要因だと考えられた。娘は、年齢の割には落ち着いて、物事に対して達観した考えを持っているところもあるのだけれど、結局のところはまだ12歳の中学生なのである。ましてや異国の地で、多種多様な民族的文化的背景を持った友人たちと日々接しているのだ。多感な気持ちを抱かずにはいられないはずだ。
また、この時に初めて、「今なら日本に本帰国になったとしても、まぁいいかなって思う」と口にした。それまで娘は「まだ日本には帰りたくない。一時帰国ならもちろん帰りたいけれど、できるだけ長くこっち(ロンドン)にいたい」と常々言っていた。そんな娘が「日本に帰ってもいい」と口にしたということは、裏を返せば、日本に帰りたいということであり、相当に弱っている、ということなのだと私は感じた。

娘は何にそんなにも疲れているのだろうと、私は考えてみた。交友関係にトラブルがあるような様子ではない。勉強についていけず困っている風でもない。恋煩いに関してはそんな気配すらない。この年頃の女子に起こりそうな要因をいろいろと考えてみても、どれも娘にはあてはまらなさそうだった。
そして私がたどり着いた答えは、娘はとにかく頑張りすぎていた、ということだった。中学校に入って以来、フルスロットルで勉強に、音楽に、趣味に、励んできた。朝は6時に起床して日本語補習校の宿題に取り組み、帰宅後は課題、ピアノとフルートの練習に励む日々。どれもいやいや取り組んでいたわけではなく、本人なりに楽しいと思ってやっていたように私には見えていたし、本人もそのように言っていた。(勉強については、「好きと言うほどではないけれど、嫌いじゃない」とのことだった)。しかし、本当はどこかで無理をしていたのだろう。本人はそれに気づいていなかったけれど、知らず知らずのうちに、自分のキャパシティを超えてしまっていたのかもしれない。

娘は小さい頃、どちらかというと慎重派で、積極的に新しいことに取り組むというタイプではなかった。自己主張ははっきりとするけれど、自ら進んで新しい環境に飛び込み、チャレンジするという前向きさがあったわけではなかった。
そんな娘が、小3でロンドンに来て、いきなり現地校に放り込まれ、周りが何を言っているのか全くわからない中で苦労しながら英語を体得し、友達を作り、学校生活を過ごしてきた。小学校に行きたくない、という発言こそしなかったものの、心のうちでは何度もそう思っていたことだろう。しかし、親の私がきめ細かに心のケアをしたり、勉強の手伝いをしたりしてこなかったので、娘はほとんど自分自身の力でそれらを乗り越え、サバイブしてきた。

現地校に転入し、しばらくした頃、担任の先生との面談時に、「〇〇(娘)はなにか持病があったりする?授業中にトイレに行きたいと言って教室を出て、15分くらい戻ってこないことがあるのだけど?」と尋ねられたことがあった。娘には特に基礎疾患があるわけではない旨を伝え、「恐らくそれは、彼女なりの現実逃避の方法なのではないかと思います。英語がまだよくわからないので、何を言っているのかわからず、疲れたときにそうしてトイレで休んでいるのではないかと思います」と答えると、「病気だったりするならば、ちゃんと認識しておく必要があると思ったのだけれど、そういうことなら安心したわ。彼女がトイレに逃げたくなる気持ちはわかるから、もしまたそういうことがあっても、しばらくはそっとしておくようにするわね」と、その先生は娘の行動に理解を示してくれた。良い先生に出会えた、とそのとき私は思った。正直なところ、見た目は少し怖いというか、迫力のある体の大きな先生だったので、ちょっと怖気づいていたのだけれど、こうして娘の行動を理解した上で、見守るという選択をしてくれる先生だということがわかり、私は娘の学校生活は大丈夫だろう、とそのとき感じたのだった。その後、その先生には最終学年でも担任を持ってもらったのだが、その頃には娘のことを溺愛してくれるようになっていた。豊か過ぎる胸元に、娘を抱きしめてくれている姿を何度も見た。それは、『天空の城ラピュタ』でドーラがシータを抱きしめている様子にそっくりで、私は毎回そのシーンを思い出してはニヤニヤしていた。
話がそれてしまったが、そのようにして、娘は自分なりの方法で、時には逃げ道を探しながらも、新しい環境に適応していき、無事に小学校生活を乗り越えていった。

昨年9月から、現地中学校生活がスタートした。毎日新しいことの連続で、さぞかし疲れることだろう、またトイレに現実逃避するのだろうか。けれど中学ではさすがにそれは認められないのではないだろうか、などと私は少しだけ心配していたのだけれど、それは杞憂に終わった。
中学に入って以来、娘は毎朝、意気揚々と家を出ていき、帰宅後には今日はこんなことがあった、あんなことがあったと報告してくれていた。「毎日楽しい。同じ小学校から同じ中学にいった子がみんな『小学校に戻りたい』と言っているけれど、私は今の方が断然楽しいから、戻りたいなんて全く思わない」と言っていた。小学校の頃のように、現実逃避したくなるような状況は、中学に入ってからは起きなかったようだ。

ある時、現地小学校生活がどうだったかを、改めて娘に尋ねてみたら「まぁ普通に楽しかったけれど、めっちゃ学校大好き!楽しい!というほどではなかった。やっぱり最初は全く英語が話せなかったし、話せるようになってきても、今まで全然しゃべらなかったのに、急にしゃべるキャラになったと思われるのもなんだかいやだし、女子はトラブルを引き起こす子もいたし、なんかいろいろ面倒くさくて一歩引いていた感じ」と振り返っていた。
小学校生活をそのように感じていた娘にとって、中学校生活がとても楽しく過ごせる場所になったことに、私は合点がいった。途中編入ということで、周りのクラスメイトよりかなり周回遅れで小学校生活をスタートしたため、みんなに全く追いつくことができない、と娘は感じていたのだ。しかし、中学では全員と同じラインに立って学校生活をスタートできたお陰で、誰に気後れすることなく、自分らしく過ごすことができる、と感じられるようになっていた。そのことが、娘にとって中学校を快適で楽しい場所にしたのだろう。娘がそう思える環境に身を置くことができたことを、本当に喜ばしく感じた。同時に、小学校時代、私には特に何か相談してくることもなかったし、それなりに仲良しの友人もいたけれど、やはり娘は心のどこかでずっと、なんとなく居心地の悪さを感じていたということを、私は改めて知ったのだった。

中学校という居心地の良い場所を見つけた娘が、水を得た魚のようにイキイキとし始めた姿を見て、私はすっかり安心していた。授業だけでなく、校内で実施される任意参加の活動にも、娘は積極的に参加するようになり、どんどんと自分の世界を広げていく姿を、頼もしく誇らしく感じた。
しかし、中学生活のスタートが好調過ぎたために、娘も私も気分が高揚しすぎていたのかもしれない。だから、知らず知らずのうちに、娘が自分のキャパシティを超えてしまっていたことに、本人も私も、気づくことができなかったのだ。それが体調不良となって表出したことで、ようやくそのことがわかった。テンションが上がり過ぎていた私たちに、娘の体が危険信号を出したのだ。そうなるまで気がつけなかった私は、母親として失格なのかもしれない。しかし、本人ですら気がついていないことに、気がつける親はどれくらいいるのだろうか、とも思った。自分に対する言い訳にしか過ぎないけれど。

そういうことがあり、娘自身も私も、一度立ち止まり、気持ちを落ち着ける必要があるのだということを、ようやく悟ったのだ。そんなタイミングで発せられた「静かな場所で、何もせず静かに過ごしたい」という娘のリクエストに、母親としてなんとしても応えてやらねばならない、と私は感じた。娘のオーバーキャパシティに気づけなかった上に、この要求をないがしろにして適当にやり過ごしてしまったら、娘の胸の内に、娘と私の間に、何か大きなしこりを残してしまうような気がしたのだ。
夫からは「別にわざわざ2人で行かなくても、家族4人で行くのでもいいんじゃないの?」と言われた。けれど、息子には申し訳ないが、息子がいるとゆっくりできないと娘が感じている以上、娘と私、2人で行く必要がある、と夫を説得し、結局、初めての母娘2人旅をすることになったのだった。