見出し画像

第二回座談会④小野寺里穂「人間視点の犬が出演する退屈、否定的に現れる予兆、存在しない出来事の演出」


小野寺:最近、コロナで外国の舞台の映像を色々見るんだけど、犬が舞台に上がってる率って高いんですよ。大きいプロダクションだと、お金もあるし。でもそこで出てくる犬は、あまりにも訓練されている。『パレルモ・パレルモ』でも、犬が出てくる場面では、舞台上に置かれた餌を静かに食べる。ロメオ・カステルッチの『神曲——地獄篇』でも、冒頭でカステルッチが防護服を着ていて、犬がカステルッチを噛む。めちゃくちゃ統率のとれた犬が出てくるんだけど、それは「犬じゃない」(笑)私が思う犬じゃない。「犬じゃない」っていうことを舞台上にあげることは色々やり方があるかもしれないなと思う。それから否定がたくさん出てくるときに、その言葉を聞いてるひとなり読むひとには、否定されたその言葉しかイメージできなくて、結局それが残ってしまう。最近、「予言」と「予兆」にすごくハマってるんですよ。さっき森健さんと雑談してたら、急に「今度大きい地震が来るらしいよ」っていうからちょっと驚いたんですけど、横浜で異様なにおいがするというのが最近ニュースになっていて、東日本大震災のときにもそういうにおいがしたらしいんです。地下で地盤が動いていて、硫黄みたいなにおいがしたらしい。予兆というのは、地震においては重要で、でもそれが予兆だったかどうかは本震が起こってからわかることですよね。具体的にかれら君が送ってくれた戯曲のなかでいえば、「なあそうだろうが。外側だからアタシにはわからないんだよ。アタシが死んだのあんたしか気づいてないじゃん。」という言葉があるけど、それがすごく予兆と関係していると思った。否定、打ち消し、仮定、可能性……。確定したことは言わずに、不確定で宙吊りなことばかりが並べられていくっていうことも、聞き手や読み手の頭に残っていく。こういうことをどうやって舞台上にあげるかということを考えていきたい。それから最近、ジャン=ピエール・デュピュイっていうひとの『ありえないことが現実になるとき』を読んだんです。そこに、「私の提起する形而上学は、破局後の時間に自己を投げ入れ、そこに必然的であると同時に起こりえない出来事を回顧的に見るのである。」ということが書かれている。デュピュイは、チェルノブイリやアメリカ同時多発テロのような、破局というのは予想ができないからこそ破局なんだと言う。今の科学では、ミニマリスクといって、リスクを最小限に減らすことを考える。それに対してデュピュイは、破局後の時間に自己を投げ入れて、「破局は必ず起こる」という前提のもとで考える。つまり来るべき破局を、すでに起きてしまったものとして回顧的に考えるんです。こういうことは、かれら君が前に言っていた「知らないことを使って書く」というのとつながるんじゃないかと思いました。言ってしまえば、否定の予兆性みたいなもの、それが未来を描く方法なんじゃないかという。
これ伝わってるかな。私は東日本大震災に関わる演劇について修士論文を書いていて、そういう話のなかのことなので少し込み入ってるかもしれないけれど。

(小野寺のテクストはこちらから閲覧できます)

否定の予言/予兆性を演出する方途 01_ページ_1

否定の予言/予兆性を演出する方途 01_ページ_2

否定の予言/予兆性を演出する方途 01_ページ_3

かれら:犬はさ、「お手」って言われたらお手をしちゃうのが悲しいところだよね(笑)獰猛さを舞台で使うっていうのは、人間から見た犬に過ぎないんだよね。ロメオ・カステルッチの『神曲ー地獄篇』は、ダンテの『神曲』という作品を題材にとってるから、そもそも犬としてではなくてケルベロスとして出てきてるのかなと思うんだけど。まあ、ケルベロスなら余計に人間に使われてたらだめだよね(笑)
小野寺は修論で扱っている自分の関心と引きつけて話して、僕は結構、この話は何度か聞いてるんだけど、ロビン、話の内容伝わった?

ロビン:難しい言葉が多いからあんまりわからない。

小野寺:修論を書くモードで書いちゃったから分かりづらいかもしれない……(笑)

ロビン:破局はまだ来ていないけれど、それは絶対に起きると思って行動するっていうことだよね。

かれら:うん。デュピュイは「破局後の時間に自己を投げ入れ」って、かなりかっこよく書いているけど、これって出かけるときに折りたたみ傘を持っていくのとどう違うのか(笑)リスクヘッジの話って、折りたたみを持っていくみたいな話じゃないのかと思うんだけど…。

小野寺:破局は…規模がでかいから(笑)「福島の原発は絶対に安全です」と言いつつ、でもああいうことが起こったわけで。

かれら:「安全です」って言っていたのは、結果的に地震が起きて、それから人災が起きたことによって安全ではないことが暴露されたわけだけど、それまでにも一応予防策は張っているわけだよね。おれは予兆については、「予兆されたものが起こったらそれは予兆ではない」って考えるんだよね。未来のことが問題になったときに、その出来事の破片のようなものが現実のなかで起こるというふうに考えると、それはすでに現在なんだよね。予兆は、それこそおれのなかでは否定と関わっていて、予兆は現在のなかにあるけれど、現在においても未来においても起こってはいけない。それを舞台上にのっけるというのは難しいし、逆に言えばやりがいがあるかもしれないね。おれはコロナで緊急事態宣言だったとき、ずっと小説を書いていたんだけど、そのなかで、ロビンとおれが公園を散歩する場面があるわけ。

曲がったのは道ではなかった。くるぶしほどの高さのロープが張られていて、人が立ち入らないように看板が立っていた。私たちは缶ビール片手に、草花そのもののように気ままだった。もしロビンが何かしらしゃべっていたとすれば、私はその言葉をいくらか覚えていられただろうけれども、草花の細部や枝葉の揺れを私は見ているそばから忘れていく。あるいはそもそも正確に把握することができない。予測できない出来事に殴られるようなものだ。川の流れや草花や、今吸っている夜気はすべて予兆として現れている。

これは人気がなくなった井の頭公園を毎日散歩してたときに考えていたことです。
風に揺れる枝葉は、引いた視点からマスに捉えてみると予想できるんだけど、風に揺れる枝葉は、人間に言語化できない部分であって、それがいくつも重なりつつ連続する状態が、「枝葉が揺れる」という行為として現れている。その行為を微分していくと、この次の瞬間どうなるかということは、把握できない。決定論みたいな話になるけれど、Aという動きの次には必ずBという動きになるとすれば、A という動きの中にはBが含まれていると言ってもいい。でもそのなかに、人間には決して予想できない残りカスのような部分が残っている。それは現実を変えることすらしないで、ただカスとしてあって、順々に消えていくものだと。この「予想できなさ」と「消えていく」というのがぼくのなかでは重要なんです。その「できなさ」「消え」は枝葉が揺れている空間のなかでは一挙に起こっている。そのできなさは、未来がここにあるというよりも、ただ予兆としか呼べないものが起こることもなく消えていく。そういうふうに考えたんです。

ここから先は

1,631字
2020年11月末日までに購読を開始し、東京本公演(2021年4月下旬〜5月上旬を予定)の月まで継続してくださった方には、 ☆本公演チケット 1,000円割引 (他割引との併用不可) ☆ 2021年3月(予定)のワークインプログレスへの優先的なご予約 ☆山本伊等の前作『配置された落下』の映像・戯曲/上演台本を視聴、閲覧 などのご優待がございます!

NO PROGRESS

¥500 / 月 初月無料

——この不完全に、戦慄せよ。「NO PROGRESS」は、リアルタイムで演劇の制作過程を見ていただくことにより、より制作者に近い観点から演…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?