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心の中のことをもう少しだけ

note株式会社さんのnoteでも「noteから生まれた書籍」に並べていただいた、初のエッセイ「歌って、恋して、生きてやる」(河出書房)

Amazonやサイン本、書店情報などは上記からぜひ見てみてね。

7月の終わりに出版になりました。自分のことや思いを書いていて、1話は短めにしています。いろいろ書いているけれど、ついついまだ自分の中でくすぶってしまっている性被害の話に、出版後も苦しんじゃって。心を立て直す作業をしていました。一時バランスを崩すだろうことは想定内だったけど、思いのほかいろんな気持ちが吹き出したなあと思います。


出版になったエッセイは昔の恋の話や、演奏時に起こったハプニングや、人との出会い、趣味の話、頑張れないときのこと、子どもが持てなかったことに悩んだ期間のことなども書いています。自分のことを書いたのだけれど、男女関係なく「共感した」と感想のメールをいただいて嬉しく思いました。みんなありがとう。
(感想はAmazonレビューや少し前の記事で見てくれたら嬉しいな)


具体的に暴露のように書いていない事への不満も、多少はいただいたの。そうしなかったのは、狭い世界だから。それは同時に自分の身を守ることにもなるから、書ける範囲で書いています。本は手元に残る重みがあるから難しいね。

それに伝えたいのは、そこから拾い出した気持ちの部分だったから。半分は自分に言い聞かせてることだったりします。そちらにフォーカスしたかった。読むのが辛いものにはしたくなかったの。

登場している恋の過去のエピソードは、元彼さんから「泣きながら読んだよ、僕が言えた義理じゃないけど幸せになって欲しい。なんでも手伝う」なんてメールをもらって「お、言ったな? こき使う」なんてやりとりもあったりしました(笑)事前に原稿を読んでもらって感想をもらったりと、今回の執筆に協力してくれた人もいて嬉しかったな。何年も前のその時は男女としてうまくいかなかったけれど、尊敬は失わずに人として付き合っていけるのっていいよね。いろんなタイミングが人生にはあるから、それもまた幸せ。残念ながら「余計なこと書いたら訴える」ってメールももらいました。そういうとこだぞ。

本題・もう少しだけ性被害の話。

苦手な方は閉じてね。

わたしの心の大きな傷。人生の時間のほとんどを、それを乗り越えるために使ってきました。小学校3年生の頃と、21歳頃だったかな…。子どもの頃と、若い頃と。若い時のことは以前、有料noteで触れたことがあります。

そこに業界で体験したセクハラ、ストーカー、日々の生活の中で出会う痴漢などのショック、恋愛の中で歪んでしまったもの、たくさん絡まってしまいました。
特に若い頃の被害のあとは、ものすごく荒れて自傷行為に近い行動をとっていたので、自己肯定感とか「なにそれ美味しいの?」っていう感じでゼロに近かったな。自分でも自分を傷つけて、ぐちゃぐちゃだった時期がありました。

それを解いて、整え直して、を1つずつひたすらやってきた感じです。

どうしてそれを諦めずにやってきたかというと、いつかは真っ直ぐ誰かを愛したかったから。真っ直ぐに愛を受け止められるようになりたかったから。ただそれだけでした。ただの承認欲求だったかもしれないけれど、それがあったから耐えられたかも。


どうしても男性に対しての不信感が消えず、お付き合いをしていても、好きな相手ほど「この人も心はなくて、ただ体だけなんではないか」「この人もわたしを傷つけるのではないか」という不安感がつきまといました。それを上手く伝えるのも難しく、不安をぶつけがちだったりもしました。フィルターがどうしてもかかってしまう。

結果、続くのは支配的なタイプが多く、アル中に叩かれる、ギャンブルのカタに売られそうになる、宗教に洗脳されかける、浮気ばかり、などなど、恋愛RPG の難題(?)を通って今に至ります(汗)

そういう人を安心できる人に変えることで、自分の傷ついた過去とバランスが取りたかったのでしょうか…。「なんでそんなレアキャラ引くの?」と友人たちにはいつも言われていました。ほんと自分でもわからない。みんな最初は優しいから、どこかでそっちに行っちゃう分岐点があったんだろうなあ。

いつかは穏やかに、愛を持ってそばにいられる人に出会えるといいなと願いながら、自分のトラウマと戦ってきたのでした。これ以上は無理かな、一人でいるのが一番いいんだな、もう生きてるの辛いなって思う日もいっぱいあったけれど、なんとか壁を壊したかった。体当たりすぎて傷だらけだったけど、諦め悪くてよかったよ。

辛かったねと泣いてくれる人、酷いと怒ってくれる人、まあもう大丈夫だよとサラッと流す人、そんな女は幸せになれないとセカンドレイプする人までいろいろでしたが、自分の過去をどんなにパートナーに説明しても、わかってもらうことは無理で。体験していないからそれは仕方がないんだけれど、少しずつ一緒に乗り越えようとしてくれる人には出会えなかった。それは難しいお願いなのかも。もしかしたら自分で追い払ってしまっていたのかもしれませんし、改善していくことを独りでもがくしかなかった。

エッセイのためにいろいろ書き起こしたことで(実際の原稿になるまでに、何度も書いたので)こんがらがっている思考が浮き上がってきたりもしました。びっくりしたのはインナーチャイルド。子どもの頃の、守って欲しかったわたし。その時の感情が、わーって泣きながら出てきたように感じました。心の中に飛び出してきた小さな自分に、わたし、大丈夫かしら!?と自分にびっくりしながら、すぐにカウンセラーさんに連絡したのが先日。

苦しかったけれど、見つけてあげられてよかった。もう大丈夫、怖くないよ。
また一本、絡まっていた糸が解けた瞬間だったように思います。

わたしはエッセイのなかで、「まだ幸せになっていない」と書いています。
その「しあわせ」は、なんですか、って出版社の河出さんに聞かれていたんですが、答えがうまく言えなかったの。子供や家やお金や、そういう条件じゃないなって。

やっとね、分かったみたい。
わたしが自分に求めていた幸せ、それは「フィルターを外すこと」
真っ直ぐに愛せる、そういう自分になりたいんだなって。

恐怖や不安のフィルターを外して誰かを愛することができた時、そのことにホッとできた時、安心して眠れた時、やっと幸せだって思えるんだろうなって。

辿り着きたい自分になれるといいな。ずいぶん近づいてると思うんだけど、辿り着けたかは今まだわからないかな。先日カウンセリングを受けてとても楽になったけれど、時間の中でまた見つかるものがあるかもしれない。その時はまた自分を癒しながらと思います。この先の未来を、まだまだ諦めたくないな。

泣いていた自分、恐怖や怒りを押し殺した自分。尊厳を潰されて、あのとき切れてしまった感情のスイッチを少しずつ戻して、柔らかくなれてきたかな。

今は、前よりももう少し自由に、心を開いて人生を進んでいけそうな気がしています。

エッセイにそうしたわたしの時間の一部を投影する、という選択は、最初怖かったけれど、やっぱり心を決めてよかったなって思います。その中で見つけられたことがたくさんありました。約2年頑張ったなあ。その時間はわたしだけじゃない、支えて並走してくれた人たちがいたからこそ、掘り下げられたと思います。河出書房さんとじゃなかったらできなかった。装丁も写真も綺麗に仕上げてくださって、長かった苦しみや迷いから紡いだものに、最後に丁寧にリボンをかけてもらったような気分です。だから自信を持って「読んでみてね」って言えるんだね。そのことが、とても幸せな気持ちなの。


どうしたら、こういう悲しみが世の中から減るんだろうね。
男女関係なく多くの人が経験していると知って、考える最近です。
元アイドルの方がテレビで「それについての取材を受けるとどうしても辛くなるから」とカウンセリングの力を借りながら取材を受けていることや、「これからもずっと向き合っていかないと」とおっしゃっていて、すごくわかるなと思いながら見ました(カウンセリング後、ニュース見れるようになったよ)

そうやって自分を出して問題定義していくってすごいな。わたしも、広く考えられる余裕が自分の中にいつか持てるように、休み休みケアしながら、少しずつこれからも進んでゆけたらいいなと思います。


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