正しいことばかり言ってられない
僕は、他者へ和らぎ(やわらぎ)を注ぐことを大切にしたいと思っている。
和らぎとは、激しさや厳しさが穏やかになる、打ち解ける、やわらかになるといった状態のこと。
これを提供するためのベースとして、「和して同ぜず」という姿勢を大切にしていたいんだ。
和して同ぜずは論語に出てくる一節で、僕が高校生の頃から好きな言葉。
頑張っている人のことを和らげることはできるけれど、相手の課題を背負うことはしない。
「あなたなら大丈夫!」と、相手を信じきる。
「こうゆう力を貸せるよ!」と、自らの頼りがいを示す。
相手が激しさに呑み込まれてしまいそうになったとしても、共に和らぎ、穏やかに熱くなれる。
・・・そんな存在でありたいと思っている。
僕は僕にできることをやり、あなたはあなたのできることをやる。
その中で、僕らが全く同じ人間ではないからこそ、協調して互いの力を高め合えることもあるはずだ。
協調するために同調するという過程を経ることもあるけれど、同調するだけして協調しないということは、したくない。
だからこそ、僕だけでなく”僕たち”で取り組める課題を「共に背負っていく」ことが必要なんだと思う。
相手の課題をただただ背負ったり、自分の課題を背負わせるのではなく…
互いの課題を共有して、一緒に背負っていく。
・・・これが、僕が実践しようと心がけている「和して同ぜず」であり、他者へ和らぎを注ぐということだ。
人は厳しさに迫られると、どうしても頭が硬くなってしまう。
そんな時には、己の常識感から抜け出せなくなってますます厳しくなるし、他者の非常識を激しく非難してしまうこともある。
けれど、その先に待っているのは「不信」と「分断」だ。
不信は後から高くつくし、分断は孤独を生み出してしまう。
僕の常識はあなたにとっての非常識かもしれないし、僕の非常識はあなたにとっての常識かもしれない。
常識と非常識の間には、”私たち”にとっての正解が必ずあるはずなんだ。
◯か✕だけではなく、時には△を選ばなければ、混沌の中では先へ進めない。
◯か✕という厳しさに囚われてしまい頭が硬くなった時に『より、やわらかな選択』ができるように、その凝りを和らげる存在が必要だと思う。
だからこそ僕は、常識と非常識の間にある、なんだか曖昧な溝の中に『和らぎ』という軟らかな水を注いでいきたい。
穏やかさと、冷静な熱狂を大切にしたい。
そして、そのためには必要なものは"倫理"だと思っている。
倫理とは、例えば「ここでマスクをつけるべき」「ここでマスクをつける必要はない」という道徳観がぶつかった時に、「なぜマスクをつけるのが良いのか?」という根っこを掘り起こし、私たちにとっての最適解を見つけ出すという営みのこと。
正しい道徳は、時代や場所、ポジションによって変わる。
つまるところ倫理とは、人びとの永年の経験が積み重なってできた、規律やルールのことだ。
その中で、僕らが他者と共により良く生きるための筋道を探求し続けることが、倫理の醍醐味。
・・・自分のために生きるのなら正しい道徳が必要だけれど、誰かのために生きるのなら、正しいことばかり言っていられない。
今の自分には何ができて、誰かのために自分は何になれるのか?ということを倫理的に考えて、実践していくことを忘れずにいたいと思う。
本日は以上です。
読んで頂きありがとうございました(*^^*)
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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
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