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僕らの望みは依怙贔屓してもらうこと
「気づいてほしい」「認めてほしい」「褒めてほしい」
・・・色んな承認欲求があるけれど、僕らが心の奥深くで求めていることは「何があっても信じてほしい」という依怙贔屓だと思う。
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「誰が何と言おうが、俺は俺自身を信じてる!」
…という力強い自信は、いったいどこから湧き上がってくるのか?
きっとその根源は、人生でたった1人でも自分のことを依怙贔屓してくれた人から授かった愛だ。
依怙贔屓をしてくれる人が親の場合もあれば、祖父母の場合もあるし、叔父や叔母、先生や師匠の場合もあるだろう。
ちなみにその愛とは『愛情』ではなく、『安心感』に近いもの。
「自分はそのままの自分で在ってもいいんだ」という安心感。
親が子に与えたがるものは愛情で、愛おしいと感じた時に抱きしめたくなったり、親の期待に応えてほしいと願う情念。
一方、子が親に求めているものは愛情というよりも安心感だ。
独りぼっちになりそうな時は抱きしめてもらいたいけれど、親という安全基地から冒険に出たい時もある。
自分の親に対して「愛おしい」と感じることはあまりないし、『愛』という言葉一つとっても、求めるものや与えるものは違うんだ。
そしてその安心感とは「今の自分で在り続けるためのもの」ではなく、他者を信じて世の中を冒険し、たとえその過程で傷ついたとしても『自分らしさという帰るべき場所』があることへの安心感だ。
それは、自分の内へとこもるための安心感ではなく、内から外へと羽ばたくための安心感。
今の自分を受け入れるという『自己受容』のために必要なものは、他者からの受容だ。
人は赤ちゃんの頃に、「微笑んだら一緒に微笑んでくれる人がいた」「後ろを振り返ったら見守ってくれてる人がいた」という体験を重ねることで、基本的な信頼感が育まれていく。
その信頼感とは、「自分はここに居ていいんだ。この世界は信じて頼れば誰かが受け入れてくれるんだ」という安心感のこと。
この信頼感は子供の頃にベースがあるけれど、大人になってからも必要だ。
・・・自分を受容してくれる相手は、親や恋人や親友の場合もあれば、神様の場合もあれば、時には大自然ということもあるかもしれない。
古くから人は、神に信仰を捧げたり、木・火・水といった自然を祀ることで、自らの存在をこの世に受け入れてもらい、自分の存在意義を見出すことができていた。
「互いの信じている神が違うから」という理由で対立や争いが起きるのは、神を否定することが、自分自身を否定することになってしまうからだ。
日本には、湿潤な自然環境があり災害も多く発生するという風土から、自然を受容するというやわらかな姿勢が僕らの文化として根付いている。
だからこそ僕らは、自然の原風景を眺めると「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と感じ、涙を溢すこともある。
それは、自分が世の中から受容されていることへの感謝の念と、「自分はここに居てもいいんだ」という安心感。
・・・そうした背景がありながら、現代では自分の信じるべき対象を見失いがちだ。
自分だけを信じ続けようとする人もいるけれど、その先にあるのはミーイズム(他者に関心を払わないこと)や、自分教という排他的な利己主義だと僕は思う。
自分を信じることで自己受容しようと努力しているのは素敵だけれど、ミーイズムでは「自分は正しいはずだ!」と信じ続けなければならないから、その過程で他者への寛容さが失くなってしまうだろう。
自分で自分のことを受容しようとすれど、他者や世界から受容されてはいないから、孤独になっていく。
そうなれば、自分の周りにいる人も自己受容をしにくくなっていくだろう。
自分がなかなか満たされない上に、不寛容な姿勢で他者をも傷つけてしまうはずだから。
自己受容の先に他者への寛容さを失ってしまえば、当然、安心感を与えることなどできなくなってしまう。
「私はあなたを愛している」という深い愛情を抱いて与えることはできても、それを貰った相手には重すぎて、そこに信頼関係や安心感は育まれない。
安心感を与えられる人とは「自分に余裕のある人」であって、それは自己を受容しながら、自己が変容することを受け入れられる人だ。
「仲間やこの世界から、自分は受け入れられている」と実感できている人だ。
・・・ところで、こうした絶対的な自信や根拠のない自信を持っている人は、世間的には「自己チュー」と言われがち。
ワンピースのルフィやスラムダンクの桜木を思い起こしてほしい
何でも自己チューの一言でまとめがちだけど、実際には『自己中心的利己』の人もいれば、『自己中心的利他』の人もいる。
世の中の皆が同じ常識感の元で生きている時代なら、他己中心的であることが正しく、自己中心的であることは悪いことかもしれない。
けれど、現代はあらゆる情報が洪水のように流れてきて、その中から正解を見つけることはできても、互いに信じていることが違ったりする。
多様な宗教感を持った異国の人々と接する機会も増えている。
その状況下では、他己中心的な人は洪水に流され続け、いつか自分を見失ってしまう。
自分の望みよりも他者の望みを叶え続け、自己犠牲も厭わず利他的に生き続けられる人がいるのなら、それは尊い存在だ。
しかし大抵は、他己中心的に他者の望みを叶えたとしても、見返りを期待し、それが返ってこなければ関係を切り捨てるという利己的な行動を取ってしまうだろう。
それは人間の性として仕方のないことだから、自分の望みを伝えた上で、それが誰かのためになるように利他的な行動を取っていくことが、誠実な対応だと僕は思う。
・・・最後になるが、僕らは確実に歳をとる。
どれだけ周りのためと利他精神で頑張っていたとしても、「こんなに頑張ってるのになんで…」という思いで、歳を取るごとに利己心は高まっていくだろう。
だからこそ若いうちに、ホントに自分を大切にした方がいいと思うんだ。
今の時代を築いてくれた諸先輩方が、他己中心的な利他精神で頑張り続けた結果、年老いてから鬼のように周りへ不寛容になる姿を僕はたくさん見てきた。
居酒屋で接客の仕事を長いことしていて、色んなお客さんと接してきたので
自分が存在していることで誰かを安心させることができたら素敵だけれど、誰かを安心させるために自分が存在しているわけではない。
仲間はもちろん、親も子も上司も部下も、それはどんな立場であっても一緒だ。
だからこそ、自分が信じるべきことは自分で決めて、誰か1人でも自分のことを依怙贔屓して信じてくれる人がいるのなら、その人を自己中心的に信じ続けることが大切なんだと思う。
そうやって自己を中心にして、信じられる枠を少しずつ拡げ世界との繋がりを実感していくことで、自分の存在をますます信じられるようになっていくはずだから。
・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)
人は何かを信じることができるけれど、自分を疑うこととセットでパワーが増す
— 軟水からっち┃新潟┃唐澤俊和📫📜 (@ich_bin_tk) June 13, 2020
自分を疑った先に見えたことを信じ抜くと、信じる力は深まっていく
その力を大切にすべき人へ向けたらめちゃ大きな安心感を生み出せるのに…
誰かが信じていることに対してとやかく言う前に、自分の信じる力を深めたい
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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者のツイートを深堀りするエッセイです。
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