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必要とされる人になるためどんな役を演じようか


昨日、いつものように笠岡の港で写真を撮っていたら、その風景にわずかな"飽き"を感じている自分に気がついた。

ついにきたか…と、ちょっぴり寂しい気持ちに。


それは、「新潟から移住してきた人」というポジションに間もなく終わりを告げ、ある種の"ボーナスタイム"が終わったことを意味するからだ。

岡山のソトから来た人から、岡山のウチに馴染んだ人へと、やるべきことがゆるやかに変わっていくという、今はそんなフェーズを迎えている。


僕は、必要とされる人になりたい。


それはどんな人かというと…

例えば、仕事をしている時に「自分じゃなくてもいい作業」を任されても、僕は全くやる気が起きない。

「誰にでもできる作業なんてやりたくない!もっと特別なことをしたい!!」

・・・と思っているわけでは、決してないんよ。

「任せてくれた人は、僕のことを信じてくれているんだなぁ」と、僕自身が感じることができるかどうか?ということが重要なんだ。

これは、信任と放任の違いだと思う。

・・・ちなみに僕は、親からすくすくと放任されて育ったと感じている。

「俊和ならひとりで上手いことやるでしょう」
「俊和の考えてることはよく分からないから口出ししない」

…こんな感じに好き勝手やらせてもらったことには感謝をしているのだけれど、もっと信じて頼らせてほしかったなぁと、心の奥で思っている自分がいる。

もちろん、毎日ご飯を食べさせてもらって、衣食住に不便なく、さらに金銭的な保護もしてくれていた親の存在は、それだけで有難い。

ただし、「もっと信じて頼ってほしい」とひそかに願う僕がいるのも、事実だ。

・・・仕事の話に戻そう。

たとえ「社会人(会社員)ならやるべき仕事」であっても、とりあえず人手が多い方がいいよねー!という曖昧な理由で、人数合わせの1人として呼ばれる仕事は、僕にとって退屈以外の何者でもない。

「自分が何をしたら相手のためになるのか?」が不明瞭だし、そもそも、依頼した側も、誰にどんな助けを必要としているのか?がボヤけた状態で依頼しているからだ。

そうゆう仕事を頼まれた時には、断れるなら断るし、立場的に断れない時には、渋々作業をしている姿を見て、周りからは手を抜いているように見られることもあるだろう。

だけど、どんなことであれ「自分は信じられているんだ」と、僕は感じていたいんよな。

人の魅力は、何か『役割』を見出だした時に輝くから、僕は僕の魅力を無駄遣いしたくないし、されたくない。

その『役割』とは、「あなたはこれをやってください」と与えてもらうだけでもいい。

自分で立候補するだけが、役割じゃない。

そこに信頼を感じることさえできれば、人はその役を演じきることができるから。

与えられた役がどんなに小さくとも、信じて見てくれている人がいる、「自分は必要とされている」と思えることで、僕らの魅力は輝きだすんよ。

・・・さて。

笠岡での生活に多少の飽きを感じるほど、岡山に馴染んできた僕が全うすべき役割は、一体何だろう?

まだ答えは見つかっていないけれど、僕のことを信じて頼ってくれる人や、役割を与えてくれる人のために、自分の魅力を惜しげもなく捧げたいと、そう強く思う。

その時に、僕の貢献心は温かく潤うから。

・・・読んで頂きありがとうございました(*^^*)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
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ゆらりときらめく水鏡のように
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